米英戦争、インディアンとの抗争と合衆国の拡大
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「好感情の時代」の記事における「米英戦争、インディアンとの抗争と合衆国の拡大」の解説
1776年に独立宣言したアメリカ合衆国の、1812年当時の入植状況は緩慢に進行していた。白人人口の3分の2以上が大西洋の海岸線に沿って50マイル以内に住んでいた。人口の中心はボルチモアの18マイル以内にあり、アレゲニー山脈を横断する道路は2つだけしかなく、50万人以上の入植者が、当時は「遠い西部」とされたケンタッキー州、テネシー州、オハイオ州やペンシルベニア州にいるだけだった。イリノイ州、インディアナ州、ミシガン州、ウィスコンシン州一帯は、キカプー族、マイアミ族、ワイアンドット族などのインディアン部族の領土だった。アラバマ州、ミシシッピ州、ジョージア州一帯はチェロキー族、チカソー族、チョクトー族、クリーク族の領土だった。 オハイオ州の植民地化は、1812年の米英戦争からではなく、1803年から目的化されていた。トーマス・ジェファーソンは1803年に「白人入植者がミシシッピ川の東側を完全占領するまで千年かかるだろう」と推定している。米英戦争の終結は、原住者であるインディアンの民族浄化を進め、インディアンを追いだした後のインディアナ州、イリノイ州、オハイオ州北部、ジョージア州、ノースカロライナ州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州、テネシー州に白人入植者を殺到させた。1818年、1817年、1816年、1812年にルイジアナ州、イリノイ州、ミシシッピ川、インディアナ州、1819年にアラバマ州と、合衆国議会は矢継ぎ早に5つの州の連合を認めた。 南東部に殺到した白人入植者たちは、インディアンを追いだした後の広大な土地を、合衆国からただ同然の安値で購入した。合衆国は大西洋沿岸部やバハマ諸島のインディアンを奴隷として購入し、またアフリカ西海岸から黒人奴隷も導入して白人入植者に供給し、ミシシッピ川以東の肥沃な土地に一大プランテーションを経営し始めた。 合衆国は西部への植民地拡大のために、全国の道路や運河を拡張させる計画を立てた。1808年、トーマス・ジェファーソンの財務長官アルバート・ギャラティンは、運河や道路の建設のために2千万ドルの計画を立案している。ジョン・カルフーンは1816年、この計画を国費で購う国家事業と位置付けて、議会でこう呼びかけた。「さあ諸君、道路や運河の完璧なシステムで共和国を結び付けよう。我々は宇宙を征服するのだ。」カルフーンの法案は可決されたが、ジェームズ・マディソンは憲法上の理由でこの法案に拒否権を発動した。しかし合衆国は、国内産業の育成のため保護貿易主義を採った。また、領土拡大のために公共土地政策を進めたが、これはつまり、植民地拡大のためならインディアンの土地所有は無効化できる、というものである。 1815年には、地中海でのアメリカの商船に対するバーバリー海賊の襲撃を終わらせた。1817年に米国はアルジェの支配者に敬意を支払っていた。1815には、スティーブン・ディケーターがバーバリ戦争に勝利したのである。1818年、英国はミネソタ州北の米国とカナダの間の国境協定に合意し、カナダ東部の海域のアメリカの漁業権を付与した、オレゴン州地域の共同占領に同意した。
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