米英戦争に対する反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/17 13:56 UTC 版)
「ハートフォード会議」の記事における「米英戦争に対する反対」の解説
マディソンが1812年大統領選挙で再選されると、ニューイングランドの反発が強くなった。1813年後半、マディソンはジェファーソンが承認したものよりもさらに規制の強い通商禁止法に署名して成立させた。これはアメリカ合衆国の中の港同士の交易(海岸交易)全てと港湾外での漁までも禁止するものだった。1814年夏、ナポレオン戦争が終結し、イギリスはその戦力を北アメリカに向けることが可能となり、実質的にアメリカ合衆国の東海岸全体の海上封鎖を行った。7月にはメイン地域(当時はマサチューセッツ州の一部だった)が占領され、8月にはホワイトハウスと首都が焼き討ちに遭い、9月にはイギリス軍がメインでさらに侵攻し、ニューヨーク州ではシャンプレーン湖地方を脅かした。近い将来にはボストン市に対する海軍の襲撃も予測された。世界の他の地域との自由貿易が事実上不可能となり、数多い国民が職を失い、8月までに銀行は正金の支払いを停止していた。連邦政府は破産に近付いていた。 ニューイングランド各州の知事は、連邦政府の戦争遂行努力に対して最小の支援をおくる政策を実行していた。ニューハンプシャー州のジョン・テイラー・ギルマン知事を除き、州の民兵出動要求の大半を拒否した。ニューイングランドの州民は、イギリスの攻撃から海岸地帯を守ることに必要とされる民兵隊を持つことを躊躇していた。民兵隊はニューイングランド以外の地域に配属されたり、正規軍の下に就かされたりすることがあった。ウィンフィールド・スコット将軍は戦後、ニューイングランドで正規軍の任官を行うときに、マディソンが連邦党を無視する政策を採ったことを非難した。連邦党はニューイングランドの最も教養のある階級だった。 マサチューセッツ州では戦争に反対する感情が強く、民主共和党の知事候補者ですら党の商業政策に反対した。連邦党は1814年の選挙でも大勝し、ケイレブ・ストロングを州知事に復帰させ、州議会下院では360議席を獲得して、民主共和党の156議席を圧倒した。9月、ケイレブ知事はメイン地域を取り戻すために要求された5,000名の部隊立ち上げを拒否した。 マサチューセッツ州とコネチカット州が、陸軍省の命令に反して民兵隊を出さなかったので、マディソンはその維持費用の支払いを拒否した。その結果、マディソンは共通の敵に対してニューイングランドを放棄したという批判も挙がった。マサチューセッツ州議会は州軍10,000名の維持のために100万ドルを手当てした。この施策を提案したハリソン・グレイ・オーティスが、東部州にハートフォードでの会議を提案した。これ以前の1804年には既に、ニューイングランドの連邦党員の中に、中央政府が強く圧力を加えてくるようなときには連邦から脱退すべきと主張する者がいた。 1814年9月下旬、マディソンは議会に徴兵制法案の成立を求めた。このことがハートフォード会議開催に至る原因の一つでなかったとしても、連邦党はこれを民主共和党が全国に軍事独裁制を敷く意図がある証拠だと考えた。ニューヨーク州のトマス・グロスブナーは、民主共和党政権が国を「守りの無く裸で、その中で泳ぐ血の海に」導いている結果と見ていた。
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