米英戦争とインディアン大虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:47 UTC 版)
「アンドリュー・ジャクソン」の記事における「米英戦争とインディアン大虐殺」の解説
ジャクソンは1801年にテネシー州市民軍の大佐として指揮官となり、おもにインディアン民族の徹底虐殺によって軍歴を積み重ねることとなった。 1812年の米英戦争でテクムセらショーニー族インディアンの抵抗戦は、ショーニー族と同じく白人に領土を侵犯された北アラバマとジョージアのクリーク族を蜂起させ、クリーク族は白人入植者へ攻撃を始めた。フォート・ミムズの虐殺で400名の白人入植者が殺されたのを機にアメリカ陸軍はクリーク族を攻撃、クリーク戦争が始まった。ジャクソンはアメリカ陸軍を指揮したが、その配下にはテネシーの白人民兵だけでなく、米軍と同盟を組んだチェロキー族、チョクトー族および南部のクリーク族が含まれた。 ジャクソンは1814年のホースシュー・ベンドの戦いで、クリーク族の伝統派抵抗戦戦士集団の赤い棒(レッド・スティックス)を打ち破った。「赤い棒」を初め、約800名のクリーク族インディアンが虐殺された。ジャクソンは投降したウィリアム・ウェザーフォード酋長を助命した。サム・ヒューストンとデヴィッド・クロケットがこの戦役に従軍、ジャクソンの下で戦っている。勝利の後ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約への調印を強制した。ジャクソンに協力して戦ったクリーク族では協約違反として酋長たちが抗議したが、結果はクリーク族が93,000㎢の領土をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。ジャクソンはこの功績で少将に任命された。 この戦争においては、クリーク族に対してジャクソン大佐は徹底的な大量虐殺を行った。男も女も、子供であってもジャクソンは容赦せず皆殺しにした。児童も含む約800名のクリーク族を殺し、殺したインディアンの死体から鼻を削ぎとらせて戦利品とさせた。インディアンの死体からは肉が剥ぎ取られ、それは細く切られ、天日で干して彼らの軍馬の手綱として再利用された。また、「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。これらはすべてアンドリュー・ジャクソンの指揮によって行われたものである。 米英戦争におけるジャクソンの功績は特筆すべきものであった。イギリス軍がニューオリンズを脅かしたとき、ジャクソンは都市の防衛を指揮し、その配下にはいくつかの西部の州および領土からの民兵が含まれた。彼は厳しい将校ではあったが、配下の兵からは人気があった。彼は軍隊で名声を得、森林地帯の戦場で「古いヒッコリーのように頑丈」"tough as old hickory" と呼ばれ、前述の愛称を得た。1815年1月8日のニューオーリンズの戦いでは停戦協定妥結後であるにもかかわらずイギリス軍に奇襲をかけ配下の5,000名の兵達が、7,500名以上を撲滅した。この戦いでイギリス軍は負傷者2,037名、死者291名(上級将校3名を含む)、1,262が軽傷、484名が虜囚もしくは行方不明となった。アメリカ軍は負傷者71名、死者13名、軽傷者39名、行方不明者19名であった。 この戦いでの勝利でジャクソンは全国的な名声を得ることとなった。1815年2月27日、ジャクソンは議会感謝声明と金メダルを授与された。アレクシス・ド・トクヴィルは後に『アメリカの民主政治』の中で「...was raised to the Presidency, and has been maintained there, solely by the recollection of a victory which he gained, twenty years ago, under the walls of New Orleans.」と論評した。
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