米英等在勤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 17:57 UTC 版)
1918年には、サンフランシスコ在勤。続いて1920年にはワシントンの駐米大使館三等書記官となった。当時の特命全権大使は幣原喜重郎、館員には佐分利貞男、広田弘毅、山本五十六、亀井貫一郎等がいた。 1922年10月には駐メキシコ公使館に転任した。 1924年6月には再び本省勤務。移民業務・在外居留邦人保護等を司る通商局第三課勤務となったが名義上のもので、実際は佐分利貞男通商局長直属の局長室勤務となる。最大の業務は同年米国で成立した排日移民法への対処であり、駐米勤務時より移民業務に従事して来た石射は当時の政府の意図について「移民を一人でも多くアメリカに送ろうという気持ちは我が政府にいささかもなく」と述べ、米国側が「仮に年百八十余人の歩合をそのまま生かして、日本移民を認めたとしても…人口構成に何等脅威となるものではない。それをしも一気に締め出すというのは、国際情誼を無視するもので、遺憾千万な立法」であり、「従来より厳重に日本政府の自制に任せるという形式で日本側の面子を立ててくれさえすれば、移民などは一人も渡米させずとも、我が政府も世論も納得するのであった」と回想している。 1925年には赤松祐之の後任として佐分利局長に請われ通商局第三課長となり、ブラジルをはじめとした中南米諸国への移民業務や海外への旅券発給業務を担当した。 1927年、駐英大使館一等書記官に任ぜられ、ロンドン勤務となる。この時期は「将棋とゴルフ」を趣味としていたという。
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