米英軍西海岸上陸/チュニジアまで大撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「米英軍西海岸上陸/チュニジアまで大撤退」の解説
11月8日には「トーチ作戦」によりドワイト・D・アイゼンハワー米中将が指揮する米英軍がモロッコ、アルジェリアなどの北アフリカの西海岸に上陸した。モロッコやアルジェリアはドイツ衛星国ヴィシー・フランスの植民地であり、はじめ同地に駐留するフランス軍守備隊が上陸してきた米英軍と交戦していたが、ヒトラーが独仏休戦協定に違反してヴィシー・フランス政府領を占領したことで現地のフランス軍は反独姿勢を強め、米英側に寝返った。 北アフリカ戦線はドイツ軍にとって二正面作戦になってしまった。これに対処するためヒトラーは急遽ヨーロッパ本土から独伊軍1万5000人をチュニジア(ヴィシー・フランス植民地)に送りこみ、第5装甲軍司令部を創設させた。はじめはエジプト国境付近で防衛線を作ろうと考えていたロンメルだったが、米英軍の西海岸上陸によりもはやエジプト攻略どころではなくなった。ロンメルはエジプト、キレナイカ地方を放棄する大撤退を行い、11月23日には最初の攻撃地であったエル・アゲイラまで軍を後退させた。 ロンメルはリビア西部トリポリタニア地方も放棄してチュニジア南部のマレトまで後退することを決意していた。これに対してヒトラーはロンメルにエル・アゲイラを死守することを命じたが、アフリカ北岸は平坦地であり、撤退作戦で後退部隊を収容するには全く向かない地形であった。ロンメルは直談判を決意した。11月28日に東プロイセンの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」へ赴き、ヒトラーと直接に会見。ロンメルはただちにトリポリタニアからの撤退許可を求めたが、これに対してヒトラーはヒステリックに怒声をあげて却下し、ロンメルを罵った。この頃になるとヒトラーが部下の将軍に罵声を浴びせるのは珍しいことでもなくなっていたが、ロンメルにとってはヒトラーに罵声を浴びせられたのは初めてのことだったのでかなり衝撃的だったらしい。そしてこの体験がこれまでヒトラーを高く評価し続けてきたロンメルのヒトラーへの評価を大きく変えたといわれる。11月30日にはローマでムッソリーニとも会見したが彼もトリポリタニア保持をかたくなに主張し、撤退を許可しなかった。 リビアに戻ったロンメルは総統命令を無視して部隊の撤退を続けさせた。それによる処分は特になかった。結局のちになって独伊上層部もトリポリタニア防衛は難しいとの結論に達したのであった。だがムッソリーニやイタリア軍部からは「ロンメルはろくに戦いもしないで独断でイタリア植民地を放棄した」と非難され、その抗議の声にヒトラーが屈した形で「ドイツ=アフリカ装甲軍はやがてイタリア第1軍に改組され、イタリア軍のジョヴァンニ・メッセ大将が司令官に就任する」旨が内定した。 ロンメル率いるドイツ=イタリア装甲軍は1943年2月16日にチュニジア・マレトに到着した。エル・アラメイン戦線からここまで約2200キロ。ロンメルの軍は1日21キロのスピードで撤退を行っていた計算になる。一方それを追撃すべきモントゴメリーの英軍第8軍は補給線が伸び切っており、すぐには追撃できなかった。 ロンメルのドイツ=イタリア装甲軍がチュニジアに入った時、すでに上陸米英軍と独第5装甲軍の間で戦闘が始まっていた。しかしロンメルと第5装甲軍司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将は折り合いが悪く、すぐに指揮権を巡って確執が生じた。
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