ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟)
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「ナポレオン戦争」の記事における「ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟)」の解説
外交関係は第四次対仏大同盟、戦役はドイツ・ポーランド戦役 (1806-1807年) を参照 プロイセンは中立的立場を取っていたが、ライン同盟の成立によりナポレオンの覇権が中部ドイツまで及ぶに至って、1806年7月にイギリス、ロシア、スウェーデンなどと共に第四次対仏大同盟を結成し、10月9日、フランスへの単独宣戦に踏み切る。しかし、10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍は壊滅的打撃を受ける。イエナではフランス軍主力がプロイセン軍の後衛部隊を撃破。アウエルシュタットではプロイセン軍主力が2倍の兵力をもってダヴー軍団に攻撃をかけるが撃退される。フランス軍は追撃に移り、10月27日にベルリンへ入城した。 11月21日、ナポレオンはベルリンにおいて大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布する。これは、工業化が進んでいたイギリスとヨーロッパ大陸諸国との貿易を禁止して、イギリスを経済的孤立に追い込むことが狙いであった。だが、逆に交易相手を喪失した大陸諸国の方が疲弊するという結果になる。フランス軍はプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を追跡して東プロイセンへと向かい、プロイセンの救援に来たロシア軍とアイラウの戦い(1807年2月7日-8日)に突入したが、吹雪の中の戦いは両軍ともおびただしい死傷者を出し、決着はつかなかった。その後フランス軍は体勢を立てなおし、フリートラントの戦い(6月14日)でロシア軍を捕捉し撃滅した。 7月7日-7月9日、ティルジットの和約が結ばれた。ポーランド分割によって独立を失っていたポーランドは、旧領の一部がワルシャワ公国として独立を回復した。ロシアは大陸封鎖令に参加した。プロイセンはエルベ川以西の領土を失い巨額の賠償金を課せられた。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれ、ナポレオンの弟ジェロームが王位に就いた。一方、屈辱的な敗北を喫したプロイセンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、またシャルンホルストとグナイゼナウによる軍制改革が実施された。 1807年10月、ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世はエアフルトで会談し、スウェーデンを大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることが確認された。これにより第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年-1809年)が勃発し、敗れたスウェーデンはフィンランドをロシアへ割譲するとともに大陸封鎖令に参加した(パリ条約)。その後、スウェーデン国王カール13世はナポレオン麾下のベルナドットを養子に迎え入れた。ナポレオンは北欧に信頼できる同盟国を得たかに思われたが、ベルナドットは後に離反し、スウェーデンを対仏大同盟に戻らせた。
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