ドイツ諸侯会議出席問題とは? わかりやすく解説

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ドイツ諸侯会議出席問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)

ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「ドイツ諸侯会議出席問題」の解説

1863年8月3日、オーストリア・ガスタインで静養中だったヴィルヘルムオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からフランクフルトで行うドイツ諸侯会議への出席要請された。この頃オーストリア大ドイツ主義的なドイツ連邦改革案を提起しており、会議はそれについて話し合うたであったビスマルク頭越し君主間で申し入れられた要請だった。ビスマルクはこの会議への出席反対の意を示しヴィルヘルム欠席するよう激し圧力をかけた。 オーストリア皇帝予定通り8月17日から諸侯会議開催し、その会議ヴィルヘルム出席要請する決議採択したヴィルヘルム親しい関係にあったザクセン王ヨハンがこの要請バーデン=バーデン滞在中のヴィルヘルムのもとへ届けにきた。ヴィルヘルムとしても立場明確にする必要に迫られビスマルクに「25名の統治者集まっているのに、1人国王だけが急使として訪れるのは問題がある」と述べて出席する意思示した。しかしビスマルクはなおも反対し、辞職脅し使ってヴィルヘルム1世説得あたったこの際論争はかなり激しい物であったらしく、ヴィルヘルム1世興奮のあまりむせび泣きし、ビスマルク国王部屋退出した後、自室洗面器粉々にしてストレス発散したという。 しかし結局ヴィルヘルム1世折れた。「問題となる連邦体制変革について、またその変革プロイセンの力に見合った正当な地位および国民正当な利益について詳細な検討加えられ時に初めて(出席の)決意固めることができます私は私の国とドイツ大義に対して私が負う責任ゆえに、そのような検討加えられる以前に私を拘束するような言明連邦諸侯与えることはできません」として出席拒否した。そしてその後ビスマルクドイツ議会設置要求を盾にオーストリア大ドイツ主義連邦改革案を撤回させることに成功した

※この「ドイツ諸侯会議出席問題」の解説は、「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
「ドイツ諸侯会議出席問題」を含む「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事については、「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の概要を参照ください。

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