第三次・第四次対仏大同盟
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「ポーランド軍団」の記事における「第三次・第四次対仏大同盟」の解説
第三次対仏大同盟戦争中の1805年までに、イタリアのポーランド人部隊は第1ポーランド軍団(1e Legion Polonaise)と改称され、イタリア王国軍に編入された。1806年、旧ドンブロフスキ軍団および旧クニャジェヴィチ軍団に属していたすべての残存部隊が、一個歩兵連隊と一個騎兵連隊からなる一個半旅団に再編され、ナポリ王国軍に編入された。この半旅団は1805年11月24日のカステル・フランコの戦いでオーストリア軍を撃退したが、1806年7月3日のサンテウフェミーア・ア・マイエッラの戦いで大敗を喫した。その他、多くのポーランド人将校がフランス軍や同盟諸国軍で戦っていた。 第四次対仏大同盟戦争中、ナポレオンはプロイセン軍からのポーランド人脱走を促進させる意図で、1806年9月20日にユゼフ・ザヨンチェク率いる「北方軍団」の創設を宣言した。ただしナポレオン自身、ポーランド問題への関与を望んでいなかったこともあり、「北方軍団」は純粋なポーランド軍団とはならず、ナポレオンの言葉通り「北方の子どもたち」の寄せ集めという形になった。北方軍団を含むフランス軍はザクセンでのイェナの戦いでプロイセン軍を破り、ついにドンブロフスキらポーランド人兵がかつてのポーランド領内(ポズナン付近)に入った。この結果、この北方軍団には多数の志願兵が流入してきた。翌年、ロシア軍を破ったナポレオンはティルジットでロシア皇帝アレクサンドル1世と会見し、ティルジットの和約が結ばれた。ここで、フランスの管理下で小規模なポーランド国家「ワルシャワ公国」が創設されることが決まった。
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