下関戦争と光明寺党、奇兵隊
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「久坂玄瑞」の記事における「下関戦争と光明寺党、奇兵隊」の解説
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した。 文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。 幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。 4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した。 この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。 長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した。 この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、何者かに暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた。 6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。 攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎、吉田稔麿、野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった。 玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光、白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した。 しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる。
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