江藤捨三とは? わかりやすく解説

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江藤捨三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 16:58 UTC 版)

江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日〉[1] - 1947年〈昭和22年〉3月31日)は静岡県出身の製鉄技術者であり工学博士。室蘭製鉄所の初代所長を務めた[2]

来歴

駿河国駿東郡金岡村にて平民・江藤俊平の五男として生まれる[3]。1887年(明治20年)7月、第一高等中学校の予科第三級へ入学。東京帝国大学工科大学の採鉱冶金科を1895年(明治28年)7月に卒業し、当時国内唯一の近代式製鉄所として稼働していた釜石鉱山田中製鉄所に勤めた[注釈 1]。1896年(明治29年)5月に退職すると、同年7月に官営八幡製鉄所の技手に任官、工務部に所属した[注釈 2]。翌1897年には研修のためドイツへ留学し、ベルリン大学で2年間研究したのち帰国。1900年(明治33年)5月に製銑部勤務となり、8月に銑鉄科長に任じられた[5]。1901年(明治34年)2月5日の第一高炉火入れにも参加したが、ドイツ人技師と意見が合わず初出銑翌日の2月8日に工務部へ配置換え。翌年8月に退職した[3]

1905年(明治38年)6月、ドイツ留学時の知人である北海道炭鉱汽船の西加二太に紹介され同社に入社。当時は専務取締役・井上角五郎の強い信念のもと製鉄場(場所は後の室蘭市輪西町)を造ろうとしていた頃で、1907年(明治40年)4月より日産50tの高炉建設など設備面での準備が始まる[注釈 3]。1909年(明治42年)6月に輪西製鉄場(後の室蘭製鉄所)が竣工。場長を務める江藤の下、同年7月18日に火入れが行われ22日に初出銑。それから2ヶ月強で2,297tを生産したが、9月30日に操業を停止。理由としては生産コストが合わなかったことや炉内の固着物が連続出銑を妨げたからとされる[6]

江藤は1912年(大正元年)に金岡村村長を務める兄・浩蔵[7]方より分家。北海道炭鉱汽船は1913年(大正2年)12月に三井財閥の傘下に入り、輪西製鉄場は再整備されて操業を開始。好景気となっていたこともあり、一日あたり平均75-85tの生産を続けた[6]。その後、輪西製鉄場は1917年(大正6年)1月に北海道炭鉱汽船から分離され、新たに北炭、三井鉱山、三井合名の三社合同出資による北海道製鉄株式会社として設立。江藤は、引き続き製鉄所所長を務めつつ同社の取締役[8]に選任され、1922年(大正11年)まで在任した[注釈 4]

1920年(大正9年)3月に博士論文「北海道産沼鐵鑛及製鐵一般ニ関スル研究及設計」を提出、帝大工学部教授会の審査を受け工学博士の学位を授与される[1][9]。室蘭を引き上げた後は東京の大崎町に住み、1923年(大正12年)から1926年まで日本製鋼所の嘱託として勤務。大日本チタニウムの相談役なども務めた[10]。退職後も鉱山に関わり続け、1947年(昭和22年)3月31日に満78歳で没す[3]

家族・親族

  • その(妻)- 1881年(明治14年)9月生まれ。静岡県・世古直道の八女[8][注釈 5]
  • 誠一(養子)- 1903年(明治36年)4月生まれ。静岡県・堀江栄太郎の五男[14][注釈 6]。東京大学政治学科を卒業し、三井信託を経て大蔵省入り。北海道財務局長を務めた[17]


脚注

注釈

  1. ^ 「鉄と共に百年」に江藤が描いた1895年のコークス炉図面が掲載されている[4]
  2. ^ 1896年(明治29年)3月30日に製鉄所官制が発布。官営八幡製鉄所の建設が決まっていた。
  3. ^ 江藤は1905年7月に空知鉱鉱長、1907年11月には建設中である輪西製鉄場の場長に任命された[3]
  4. ^ 1919年(大正8年)には北海道製鉄が日本製鋼所と合併した。
  5. ^ 義父の世古直道(1838年生)は先代・清道の養子。世古家は伊豆国三島宿で本陣を営む旧家で、当主は代々六太夫を名乗る。忠臣蔵で知られる浅野内匠頭も六太夫の本陣を定宿としていた[11]。世古六太夫清道(1815-1891年)は明治元年、徳川家駿河移封の際に駿東郡木瀬川村に移住し、愛鷹牧の牧士取締に任命[12]。昭和天皇の養育係も務めた川村純義が六太夫から1890年に買い取った3千坪の土地は、沼津御用邸の西付属邸用地となった[13]
  6. ^ 堀江栄太郎は伊豆銀行頭取及び韮山村長などを務めた。その四男の堀江栄(1901年生)は三井銀行に勤務し、妻は産業組合中央金庫の副理事長を務めた川崎軍治の二女・濱子[15]。七男の堀江悦三(1909年生)は麻生太郎の二女・辰子と結婚し、麻生産業取締役を務めた[16]

出典

  1. ^ a b 『大日本博士録』 VOLUME V、発展社、1930年、(日本語) 243頁。NDLJP:1754046/392 
  2. ^ 鉄鋼新聞社 編『鉄鋼辞典』工業図書出版、1965年、48頁。NDLJP:2506405/32 
  3. ^ a b c d 室蘭 1958, p. 57.
  4. ^ 『鉄と共に百年』 写真・資料、新日本製鉄釜石製鉄所、1986年10月、37頁。NDLJP:13087787/26 
  5. ^ 三枝博音、飯田賢一『日本近代製鉄技術発達史:八幡製鉄所の確立過程』東洋経済新報社、1957年、巻末 9頁。NDLJP:2482928/387 
  6. ^ a b 碪常和『西村勝三と明治の品川白煉瓦』1993年1月、107-110頁。NDLJP:13305448/59 
  7. ^ 静岡新聞社出版局 編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年12月、327頁。NDLJP:13207566/167 
  8. ^ a b 『人事興信録』(5版)人事興信所、1918年、え之部 3頁。NDLJP:13012393/1046 
  9. ^ 『博士名鑑』 昭和10年版、フーズ・フー・イン・ジャパン社、1935年、305頁。NDLJP:1259464/393 
  10. ^ 『人事興信録』(7版)人事興信所、1925年、え之部 3頁。NDLJP:1704004/1088 
  11. ^ 土屋寿山、稲木久男『ふるさと三島:歴史と人情の町』1989年12月、121頁。NDLJP:13129415/67 
  12. ^ 『愛鷹牧:企画展解説書』沼津市明治史料館、1991年7月、31頁。NDLJP:13140711/17 
  13. ^ 『沼津御用邸のあゆみ:市制70周年記念特別展』沼津市歴史民俗資料館、1993年8月、16頁。NDLJP:13276036/13 
  14. ^ 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』(第3版 ア-ソ之部)、1930年、エ之部 6頁。NDLJP:1688501/269 
  15. ^ 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』(第5版 ア-ソ之部)、1932年、カ之部 137頁。NDLJP:1688499/489 
  16. ^ 『現代財界家系譜』 第3巻、現代名士家系譜刊行会、1970年、61頁。NDLJP:3026597/100 
  17. ^ 『人事興信録』(16版 上)人事興信所、1951年、え之部 4頁。NDLJP:2997928/160 

参考文献

  • 『室蘭製鉄所50年史』富士製鉄室蘭製鉄所、1958年7月。 NCID BN03853333 



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