鳥羽・伏見の戦いに際して
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「神保修理」の記事における「鳥羽・伏見の戦いに際して」の解説
慶応3年(1867年)10月、大政奉還によって風雲急を告げ、長輝もまた長崎から大坂へ帰還。12月の王政復古によって事態の収拾が不能となると、長輝は高揚する主戦論に対し不戦恭順論を前将軍・徳川慶喜に進言。江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。これにより、会津藩の内部において主戦派急先鋒である佐川官兵衛らと激しく対立した。 翌慶応4年(1868年)1月、結局戦いは避けられず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。長輝は軍事奉行添役として会津藩の軍権を持ち出陣。しかし、旧幕府側は兵力で圧倒しながら戦況が思わしくないことに加え、旗色をうかがっていた津藩などの寝返りによって不利な状況に転じたことに慄然となり、挙句に新政府側に錦の御旗が翻り、朝敵となることを恐れた長輝は慶喜と容保に恭順を進言した。しかし折悪く、慶喜以下、容保までが長輝を残し大坂城を抜け出して江戸へ脱出したことで急速に戦意を喪失した旧幕府軍は崩壊し、あっさりと官軍に勝利をもたらす結果となった。
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