大坂夏の陣の武功者たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 21:34 UTC 版)
「越後長岡藩の家臣団」の記事における「大坂夏の陣の武功者たち」の解説
大胡藩主・牧野氏は、大坂夏の陣の勲功で3倍に領土を増やし、長岡藩主に栄転して、その後も加増を続けた譜代大名である。 大坂夏の陣によって、家禄を大幅に増やしたり、新規召し抱えがかなった藩士が、相当な数に及んだ。 関ヶ原の戦い後の大坂城主・豊臣秀頼は、65万石余の領地を持っていたに過ぎず、これを滅ぼすために、全国の諸大名を軍役で動員して、難攻不落の大坂城を攻略して、大きな犠牲を払うと、豊臣方を滅亡させて領地を没収したとしても、恩賞を与えるだけの領地が不足するので、徳川家康は、大坂攻めに慎重であったと云われている。そこで、城攻めにあたって、手柄をたてられそうな場所には、譜代大名を配置したとされるが、その恩恵を受けた一つが牧野家であった。 牧野家の家伝は、大坂の陣の武功者として、次の者の姓名をあげている(→【大阪陣功名】)。 稲垣平助、今泉竹右衛門、稲垣権右衛門、朝倉仁右衛門、疋田(匹田)水右衛門、武彌兵衛、今泉次郎作、三間喜兵衛、 山本才蔵、伊藤道右衛門、秋山長四郎、神戸彦右衛門、石垣忠兵衛、神戸安右衛門、望田善内、倉地呰右衛門、広中茂右衛門、由良作左衛門、真木金右衛門、山本隼之助、桑名甚八、長谷川権六 上記に姓名がなくても、深沢氏のように、大坂夏の陣・一番槍として、一躍、高禄を与えられている者もあるので、この家伝には、記載漏れもあると思われる。
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