越後長岡藩の家臣団とは? わかりやすく解説

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越後長岡藩の家臣団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/09 03:24 UTC 版)

越後長岡藩の家臣団(えちごながおかはんのかしんだん)は、元和4年(1618年)4月、越後長岡藩に入封し明治3年(1870年)10月に廃藩となるまで在封した譜代大名牧野氏表高7万4,000石(初め表高6万4,000石余のち増封1万石・実高約14万石)の家臣団である。彼らは戦国時代より"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"を家訓として掲げた三河国宝飯郡を発祥とする近世大名・牧野氏宗家に仕えた武士たちである。


  1. ^ 稲垣氏は、『藩翰譜』などによると、遠祖は清和源氏小田重氏であるとする。(→詳しくは三河稲垣氏を参照)
  2. ^ 司馬遼太郎の小説『峠』に登場する恭順派の筆頭家老稲垣平助にあたる人物
  3. ^ Etsu Inagaki Sugimoto (1925年). “A daughter of the Samurai”. Doubleday, Doran. 2016年1月16日閲覧。
  4. ^ 杉本鉞子 『武士の娘』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1994年 (原著1925年)。ISBN 978-4480027825 
  5. ^ この山本家の嫡子は、それ以前に越前松平家に仕官していたので継嗣がいなかった。
  6. ^ この家系の嫡流(伝十郎家)は3代目牧野次郎左衛門(初め伝十郎、250石)のとき改易・断絶となったが、その次男牧野十左衛門(100石のち110石)や三男牧野十助家(100石)の庶流が残った。
  7. ^ なお松井光次の嫡流は尾張徳川家家臣となった。
  8. ^ 松平君山「士林泝洄」(『名古屋叢書19』名古屋市、1968年)付録巻第126・松井氏の559-560頁
  9. ^ 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』(野島出版、1968年)第二章 第二節「家老五家」の192-198頁
  10. ^ 安藤英男『定本 河井継之助』(白川書院、1977年)25頁
  11. ^ 『長岡藩政史料集(2)』(家中編)(『長岡市史双書』No.15、1991年)134頁
  12. ^ その先祖が初代長岡藩主・牧野忠成が新次郎と称して、未だ牛久保城主であった頃に、年長の新次郎を党首として交誼親密で恰も水魚の交わりの様であったと云う。ともに徳川家に属して戦功を重ねて賜った知行二千四百貫文を4等分して各々六百貫文ずつ知行したのだと云う。やがて、牧野新次郎は立身し元和年中に七万四千石余に至り長岡領を賜ったので、以前の六百貫文に事寄せて、三家にそれぞれ知行六百石ずつ宛て行った。しかし、真木・野瀬の両家は知行高の少ないのを不満として長岡を出奔してしまった。藩主牧野家は彼ら勲功ある家柄を慕い、その血統を重んじて残った両家の血族に先法家と名付け、家老の支配を受けない寄会組の格式を与えて、藩主の客分として差し置く家柄として連綿相続させたものという。
  13. ^ 槇重勝は、元和5年福島正則改易の使者となった藩主に随行し、翌年長岡藩の栃尾増封の際に栃尾1万石のお預け支配にあたった。この栃尾領は徳川家康養女から正則室となった牧野忠成妹へ下賜の扶養料という。(→【諸士由緒記】)。
  14. ^ 真木氏は家康に臣従後に大きな戦功等の記録は無く、わずかに庶流の真木金右衛門が大坂夏の陣で武功があったことが伝えられている(【大阪陣功名】など)。この家系が班を進めて、小諸入封より前に支藩・牧野家の家老の家柄となった。末裔の小諸藩家老真木要人は、明治元年(1868年)斬首刑に処せられた。
  15. ^ 真木家文書(槇文書)が東京大学史料編纂所に所蔵されているほか、小諸家臣の真木(槇)氏に関する文書から、長岡家臣の真木(槇)氏の動静を知ることができる。
  16. ^ 能勢氏は元和5年福島正則改易使者となった藩主忠成に随行。これに次いで藩主の御鷹拝領の栄を受け、初代から3代当主までその養育領として栃尾山中に御鷹領を授与され、4代目は中老職に昇進した。(→【諸士由緒記】)
  17. ^ 『新潟県史・通史3・近世一』では新発田藩の仕置役(家老)に柿本蔵人がいたとする。
  18. ^ 幕職も記載される江戸武鑑では、陪臣にあたる諸藩の奉行を「中老」や「年寄」と表記する(「仙台藩など」)か項目を付さない(米沢藩など)ので、実際奉行職があっても「奉行」と書かない。長岡藩の場合は化政期~天保期の須原屋版江戸武鑑では中老と奉行を「中老」」の項目で一括掲載されているが、中老内を斜線で区別している場合があり、この斜線は非常置である中老と奉行とを区別するためのものである可能性が高く文政4年の武鑑では柿本は他の奉行と差別化された人物の一人である(これ以前の文政武鑑では差別化されていない)
  19. ^ 残り2件は小諸騒動の河井の調停と、長岡家臣を派遣して小諸藩主を補佐させた記事である。同年譜には記載がないが小諸藩文書によると、長岡家老、稲垣平助が小諸に倹約を命じた書状を持たせて、長岡家臣を小諸に派遣したことがあるが年代が異なる(小諸藩牧野家文書、長岡市史に史料引用あり)。
  20. ^ もっとも小諸藩御用部屋日誌(個人所有、学習院大学史料館に写本蔵)などに本藩長岡と、在所小諸との往来を記述した記録を見ることができるが、弔問など冠婚葬祭に関するものが残っているに過ぎない。その一方で、江戸藩邸では頻繁に往来して政治的・重大事を、しばしば含んでいた【再興長岡】・(長岡藩公用人日誌小林藹、東京大学史料編纂所蔵)。
  21. ^ なお、寛延年間に起こった長岡藩主家特筆事項としては2人目の笠間藩主家出身の長岡藩藩主就任と幕府を欺く形での牧野新三郎貞寛の笠間藩主家養子入り(詳細は牧野忠寛参照)がある
  22. ^ ここでいう小諸藩文書は【小諸年譜】P,75に翻訳整理されたものが、ほぼ掲載されている
  23. ^ 但し、今泉氏が編集に協力した『長岡市史』において国許の藩校崇徳館についてはやたら詳しい反面、江戸藩邸の藩校である就正館についてはほとんど無知であったり、取次職については不詳、附役について記述省略したりと、江戸藩邸関連の記録について不十分な傾向がある。また、武鑑でも今泉岡右衛門の名が見られること少なくないが、定府として掲載されることはほとんどない。
  24. ^ 出典は小諸藩牧野家文書<標題「倉地呰右衛門長岡蟄居の真相」>・小諸藩伺書 東京大学史料編纂所蔵




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