伊藤弘充とは? わかりやすく解説

伊藤弘充

(伊藤東岸 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/12 08:36 UTC 版)

伊藤 弘充(いとう ひろみつ、1781年 - 1864年)は江戸時代越後長岡藩儒臣。古義学(堀川門流)の宗家である古義堂3代目で三河国挙母藩藩校初代学頭となった伊藤善韶(東所)の子。古文辞学を教授する秋山朋信(景山)とともに藩校崇徳館の初代都講になる。は弘充、通称は満蔵、は東岸。伊藤 東岸で著名。

経歴

天明元年(1781年)出生。父方の親族関係については父の親族関係の項目で掲載するのでここでは割愛。当初京都にいたが、長岡藩主牧野忠精京都所司代時代に父に学問を学んでいた縁や文化5年(1808年)に長岡藩校として崇徳館が創設されたこともあり、文化9年(1812年)に長岡藩に来て長岡藩士となった。

既に崇徳館の教授方に秋山が就任していたが、文化12年(1815年)に秋山とともに藩校の校長である都講に就任し、2階建ての藩校の1階にて古義学を教授する。この2学派からそれぞれ並列しての藩校責任者登用により、長岡藩の藩学は古義学と古文辞学の2派並列となる。

韓国の日本史研究者金炯辰は仁孝天皇諡号「仁孝」の真の発案者は弘充であったとする説を唱えている。弘化3年(1846年)当時の古義堂学頭伊藤輶斎がまだ幼く、弘充が一時的に上洛してその後見にあたっていたこと、関白鷹司政通は前年に死去していた伊藤東峯(古義堂5代目。弘充の弟・輶斎の父にあたる)をブレーンとしており、光格上皇崩御の際の「天皇号・諡号」復活の際にも政通のために献策を行っており(「光格」の原案作成者も東峯であった可能性が高い)、東峯の手記の補足として弘充の筆によって彼にも政通から諡号案の考案の依頼があって回答したことが記されて、その案の中に「仁孝」も含まれていることによる[1]

家老家の山本家から妻を迎える。また、深津家より養子を迎えるが、この養子が伊藤東獄である。元治元年(1864年)に死去、墓所は栄涼寺

参考文献

  1. ^ 金炯辰「近世後期の天皇号・漢風諡号再興と古義堂伊藤家」『史学雑誌』第132巻第8号、2023年。 /所収:金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、209-240頁。ISBN 978-4-13-026615-4 




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