花王院快翁
時代 | 戦国時代後期 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄元年(1528年)[1][2] |
死没 | 文禄5年6月16日(1596年7月11日)[1][2] |
改名 | 栄西、繁宗?[2] |
別名 | 甚兵衛、快惶[1][2] |
戒名 | 無阿弥[1][2] |
官位 | 若狭守[1][2] |
主君 | 豊臣秀長、秀保、秀吉[1] |
氏族 | 安田氏[2] |
父母 | 父:安田長宗[1][2] |
兄弟 | 知宗、快翁 |
子 | 則宗[1][2] |
花王院 快翁(けおういん かいおう)は、安土桃山時代の真言宗の僧侶、武将。後に還俗し、俗名を繁宗(しげむね)としたとする説もある[1][2]。
経歴
紀伊国有田郡保田庄の武家で、守護畠山氏と織田信長に従った保田知宗の弟。高野山塔頭・花王院の住職を務めた。天正9年(1581年)信長の高野山攻めでは、山徒諸士を率いて麻生津口・学文路口を方面を守備し、翌年に織田軍が麻生津口より西尾山砦に侵攻を始めると防戦に努めた[3]。
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで柴田氏についた兄・知宗が敗死すると、保田3,500石を継承して豊臣秀長に仕える[4][2]。後に大和国竹田・畝傍・大窪・羽内・松山・二階堂等に所領を与えられた。秀長が死去した翌文禄元年(1592年)秀吉の命で家督を子の則宗に譲り、同5年(1596年)69歳で没[1][2]。
脚注
参考文献
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年。ISBN 978-4-404-01412-2。
- 宮坂宥勝; 佐藤任『新版 高野山史』心交社、1984年。ISBN 978-4-915567-05-6。
- 清水町誌編さん委員会 編『清水町誌』 上巻、清水町、1995年。
- 『寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0208-6。
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