ブーランジェ事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ブーランジェ事件の意味・解説 

ブーランジェ将軍事件

(ブーランジェ事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 00:27 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ブーランジェ運動の高揚を描いた風刺画

ブーランジェ将軍事件(ブーランジェしょうぐんじけん)とは、第三共和政治下のフランスで1886年から1889年にかけて起こった、反議会主義的・反共和主義的政治運動である。ブーランジェ事件、ブーランジェ運動、またはブーランジスムとも呼ばれる。

事件直前のフランスの情勢

普仏戦争の敗北によって課せられた賠償金[1]及び一大鉱業地帯であるアルザス=ロレーヌ地方の喪失のために、フランスの国民感情ドイツに対する敵愾心が高まっていく傾向にあった。また、1882年に起こった金融恐慌のために、それまで上昇傾向であった景気が低迷し、工業生産はアメリカ・ドイツ[2]に抜かれて世界第4位に転落する有様であった。また、帝国主義による植民地支配は拡大し、外債によって対外投資が増大するという問題点もあったことに加えて、ドイツでは時の宰相であるビスマルクがフランスを孤立させる外交方針を展開していた(ビスマルク体制を参照)ことから、対独ナショナリズムの高揚と強い政府を求める声が主張されていた。

しかしながら当時の多党連立政権は明確な対策を打ち出すことができず[3]、与党に対抗すべき社会主義政党も離合集散を繰り返しており広範の支持を得ることはできていない状況であった。一方王党派ブルボン朝支持派オルレアン朝支持派の間に対立があり、こちらもまとまりを欠いていた。

ブーランジェ将軍の登場

1886年1月、シャルル・ド・フレシネ内閣[4]陸軍大臣としてジョルジュ・ブーランジェが登用される。

ブーランジェは時勢が共和派に有利となっていると判断し、彼らに迎合するかたちで兵制の民主的改革や王族の軍隊からの排除を行った。また、ドゥカズビル(fr:Decazeville)炭鉱における争議に対して軍隊の出動を求められた際には坑夫に同情的な態度を装い、議会において共和制護持の演説を展開し、共和主義者、特に急進派からの支持を大きく受け、「共和的将軍」としての名が高くなった。

復讐将軍

1886年12月には内閣がルネ・ゴブレフランス語版英語版(René Goblet)に交代したが、ブーランジェは陸相に留まった。1887年4月20日、ドイツ国境においてフランスの一警察官がスパイ容疑で逮捕されるというシュネブレ事件フランス語版が起き、独仏国境における緊張が高まった。ブーランジェは対独強硬論を主張し、ビスマルクをして独仏の友好にとって最大の危険人物と言わしめた。これによりブーランジェは対独を含めた排外的国民的感情を掌握し、「復讐将軍」「ビスマルクを尻込みさせた男」として人気を博し、右翼側からも広く受け入れられることとなった。

更迭と予備役編入以後

1887年5月、内閣がモーリス・ルーヴィエフランス語版英語版(Maurice Rouvier)に交代すると、ブーランジェの異常な人気を背景にした武断政治化に恐れをなした[5]政府は、彼をクレルモン=フェランの軍団司令官に任命し、パリから遠ざけようと試みた。パリの民衆はこの処置に不満を抱きデモが繰り返され、7月8日の出発の際にはリヨン駅に1万人を超える群集が集まったほどである。

その直後、大統領ジュール・グレヴィの女婿ヴィルソン(fr:Daniel Wilson)によるレジオンドヌール勲章売勲スキャンダル(fr:Scandale des décorations)が発覚。ルーヴィエ内閣は総辞職、グレヴィ自身も辞職せざるを得なくなった[6]。これにより政府の権威は失墜し、これに反比例するように、ブーランジェに対する期待感が大きくなっていった。

王党派への接近

この情勢を見て取ったブーランジェは、ひそかに王党派ボナパルティストの指導者たちと会合を行い、反共和主義勢力とよしみを結ぶようになった。王党派は王政復古を、ボナパルト派はブーランジェのカリスマ性に帝政復活を期待していた事情があった。

彼が予備役に編入されて被選挙権を得ると、彼の周囲には「国民委員会」と自称する組織[7]があらわれ、下院の補欠選挙が行われる度にブーランジェを候補者として推したてるようになった。

選挙での圧勝・クーデター未発

1888年4月には二つの県で、8月には三つの県で補欠選挙に立候補し、そのいずれにも当選を果たした。これは選挙法の不備につけこんだ行為であったが、少なくとも違法ではなかったため政府はなすすべがなかった。ブーランジェは「議会解散、立憲議会、憲法改正」の三つのスローガンを掲げ、1889年1月27日セーヌ県で行われた選挙に出馬、共和各派統一戦線の候補者に八万票の大差で圧勝した際には5万の群集が集まり、彼にクーデターの実行を指嗾するまでになった。

ブーランジェ派の指導者たちは、当選決定の1月22日夜にブーランジェをエリゼ宮殿まで行進させ、示威行動とともに独裁権を奪取する計画を練っていた。が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解し、大衆の支持は急速に失われた。これによりフランス共和制は危機を脱した。その後、ブーランジェに逮捕状が発せられ、関係する組織は起訴されることとなった。身の危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、彼を支持した勢力は急激に衰えていくことになる。

他の政治運動との比較

ブーランジスムは議会外の民衆運動に依拠して、反議会主義、人民投票型民主主義を標榜し、左右の諸潮流を糾合した点でボナパルティズムに似通っている。ただし、その支持基盤が大都市と北部工業地帯にほぼ限定され、都市急進運動の色彩が濃厚だったところは異なっている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 50億フラン1871年に締結されたフランクフルト講和条約による。締結以後3年以内に完済することが求められた。この締結は第三共和政が成立する以前のものであるため、第三共和政政府自身は債務を背負うことに積極的でなかった。が、国力の回復に伴って賠償金自体は期限満了前に完済した。愛国心に燃える国民が、公債応募に対して並々ならぬ熱意で応じたためである。
  2. ^ ドイツの工業生産力が増大した理由のひとつが、石炭鉄鉱石を産出するアルザス=ロレーヌ地方(ドイツ名:エルザス・ロートリンゲン)にあることは言うまでもない。
  3. ^ 政府内部にも最右翼アドルフ・ティエールから急進左翼レオン・ガンベタまで幅広い党派があり、統制が困難であったことも理由のひとつである。
  4. ^ 大統領ジュール・グレヴィ1887年まで。
  5. ^ 第三共和政初代大統領は、パリ・コミューン鎮圧の際に総司令官に任ぜられたマクマオン元帥であった。彼は王党派の人物であったことで議会との間に軋轢が生じ、1879年に辞任する。政府が、絶大な人気に支えられた軍人が政界に進出する気風を恐れるのも当然である。
  6. ^ 後任はマリー・フランソワ・サディ・カルノー
  7. ^ こんにちで言う勝手連に近い。ブーランジェ自身がこの流れに積極的に乗ったわけではないにせよ、否定をしなかったのは事実である。

関連項目

関連図書

ミシェル・ヴィノック著『フランス政治危機の100年-パリ・コミューンから1968年5月まで』(大嶋厚訳)吉田書店、2018年(第3章「ブーランジスム」を参照)


ブーランジェ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:29 UTC 版)

フランス第三共和政」の記事における「ブーランジェ事件」の解説

詳細は「ブーランジェ事件」を参照 しかし、フランス国内では、左派軍事費の増大とそれに伴う国民への負担増、右派は対ドイツ消極外交関連づけて、こうした植民地拡大政策批判した国内軍部取り分けフランス陸軍国内保守派王党派ボナパルト派など)の牙城であり、政治対す介入仄めかすこともあったが、1885年議会選挙フランス語版英語版)でジュール・フェリー率い穏健共和派フランス語版英語版)が勝利した1886年急進派援助フレシネ内閣発足すると、ジョルジュ・ブーランジェ国防大臣ポスト得た。彼は軍属ありながら軍部改革やドゥカズビル(フランス語版英語版炭鉱での争議に対して軍の派遣拒否するなどして民衆共和派政治家からも支持されていた。 1887年4月20日独仏国境フランスの一警察官スパイ容疑逮捕されるシュネブレ事件フランス語版)が起きたブーランジェは対独強硬論主張し普仏戦争以降排外国民的感情刺激しビスマルクをして独仏友好にとって最大危険人物言わしめ、「復讐将軍」の渾名を持つようになった1887年5月政権交代したモーリス・ルーヴィエ(フランス語版英語版内閣は、ブーランジェ人気恐れ更迭、さらに軍籍剥奪したが、12月2日レジオンドヌール勲章収賄事件フランス語版)が発覚してグレヴィ大統領辞任し12月3日大統領選挙フランス語版)ではサディ・カルノー対立候補ジュール・フェリー破り新大統領就任した12月10日ブーランジスム運動の活動家によるジュール・フェリー暗殺未遂事件起こった12月12日にルーヴィエ首相辞任余儀なくされた。かえってブーランジェ対す人気高まり期待感大きくなっていった1888年7月改憲反対派のフロケ(フランス語版英語版首相口論の末決闘となったブーランジェ決闘には負けたものの、ブーランジスム呼ばれる民衆の支持はかえって盛り上がり圧倒的支持受けた共和勢力の衰退見た反共和主義勢力の王党派ボナパルティストは、ブーランジェとの協力関係結んだ1889年1月27日補欠選挙勝利すると、クーデター画策したが、肝心ブーランジェ本人実行ためらったため計画瓦解しフランス共和制危機脱した2月22日にフロケ首相総辞職し次の首相に就任したピエール・ティラール(フランス語版英語版)によってブーランジェ逮捕状が発せられ、関係する組織起訴されることとなった身の危険感じたブーランジェは、4月ベルギー亡命した1889年9月議会選挙フランス語版英語版)が実施されその後ブーランジスム勢力急激に衰えていった。

※この「ブーランジェ事件」の解説は、「フランス第三共和政」の解説の一部です。
「ブーランジェ事件」を含む「フランス第三共和政」の記事については、「フランス第三共和政」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ブーランジェ事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブーランジェ事件」の関連用語

ブーランジェ事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブーランジェ事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのブーランジェ将軍事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフランス第三共和政 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS