シムラ会議とマクマホンラインとは? わかりやすく解説

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シムラ会議とマクマホンライン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)

チベットの歴史」の記事における「シムラ会議とマクマホンライン」の解説

1913年から1914年にかけてシムラにおいて英国チベットガンデンポタン)、中華民国三者の間でシムラ会議開かれた英国ロシア中国モンゴルに対して初期行った合意のようにチベット人居住区を内チベットと外チベット分割する提案をした。外チベットはほぼ現在のチベット自治区と同じ地域であり、中国の総主権の下に自治し、この地域では中国は「行政への干渉」を控える。一方、東カムアムドラサからなるチベットで宗教上で問題支配のみが保たれるとした。1908年から1918年中国守備隊カムにおり、地元王子はその司令官従属していた。 当時イギリス中国チベットを覆う宗主権認識しており、チベット中国の県変えないという中国政府との合意とともに中国領土一部同等にチベットの状態が断言されていた。 しかし、内チベットと外チベット明白な境界線関した点で交渉決裂すると、英国交渉長官であったヘンリー・マクマホンチベット-インド国境にマクマホンラインとして知られる線を引いた。この線によって英国おおよそ9000平方キロメートルものチベットの歴史領域、タワン県を併合した。これは現在のインドアルナーチャル・プラデーシュ州である。のちに中国はこのマクマホンラインインド側への不法編入であるとして抗議し、この地域南チベット呼んだ。なお、英国はすでに1912年には、地元族長たちと合意締結していた。 シムラ条約は3者の代表団によって締結されたが、北京政府は外チベットと内チベットの間の国境書くこと対する不満からすぐに合意撤回したこのためマクマホンチベット人代表はこの合意示され全ての事柄において中国いかなる主張拒絶する通牒付託されたこの条約を、英蔵相条約としてサイン行った英国運営していたインド政府最初英露協商1907年)に矛盾するとしてマクマホン相互条約拒絶した(英露協商1917年ロシアが、1921年には英国破棄)。その後マクマホンライン英国政府および独立後のインド政府にとって国境捉えられた。中国からすれば、この地域中国領であり、またシムラ条約締結していないために条約無効であり、インドによるこの地域併合不当であった。この問題はのちの1962年中印国境紛争もたらした

※この「シムラ会議とマクマホンライン」の解説は、「チベットの歴史」の解説の一部です。
「シムラ会議とマクマホンライン」を含む「チベットの歴史」の記事については、「チベットの歴史」の概要を参照ください。

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