シムラ条約
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シムラ条約(シムラじょうやく、英語: Simla Convention)とは、1914年7月3日にイギリス帝国とチベットの間で調印され、チベットを形式的に中華民国の主権の下で実質的に独立した国家として認めた条約。ただし中国側は署名を拒否した。
経緯
イギリス帝国のチベット進出
モンゴル帝国・清朝の庇護のもとで、中世から近世にかけてのチベットはダライ・ラマ政権による自治を獲得していた。イギリス帝国はインドを植民地とした後に、北進してチベットを支配することを狙った。1903年にはヤングハズバンド率いるイギリス軍がチベット遠征を開始し、一時はチベット第1の都市であるラサ市も占領した。このため、1904年には当時のチベット自治政権の最高指導者であったダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命した。
清朝の攻撃
1904年から1906年にイギリス帝国と清朝との間で交渉がもたれ、イギリス帝国は一旦は清朝の宗主権を認めたものの、再度軍事侵攻を開始した。1905年には(ダライ・ラマ13世のライバルであった)パンチェン・ラマ9世はイギリス領インドを訪問した一方で、1907年にはダライ・ラマ13世は北京を訪問している。イギリス帝国の軍事侵攻に対して1910年には清軍がチベットを攻撃したため、チベットの混乱は深まり、今度はダライ・ラマ13世はイギリス帝国インド領に亡命した一方で、翌1911年にパンチェン・ラマ9世がラサ市で清朝に協力した。
清朝の消失とイギリス帝国によるチベット独立の承認
しかし、辛亥革命で清朝が消失すると、イギリス帝国はチベットに介入し、1913年にイギリス帝国インド領に亡命中のダライ・ラマ13世をラサ市に戻し、政権の樹立を目指した。1913年から1914年にかけてイギリス帝国インド領北部の避暑地シムラ(Simla、Shimla)でイギリス帝国、中華民国、チベットで会議が実施された。イギリス帝国全権代表ヘンリー・マクマホンは、イギリス帝国インド領の国境線を北上させる条項(いわゆるマクマホンラインのこと)をチベットと締結したが、中華民国代表は署名を拒否した。
その後の動向
1938年、英国は最終的に二国間協定としてシムラ条約を発効し、マクマホンライン以南のタワンの僧院にラサへ税を収めることを終えるように求めた。なお、C.U.アッチソンの条約関連の記録に、「シムラでは拘束力のある合意には達することが無かった」との注釈が見つかっているが[1]、これは1929年の偽の発効日を持つ新しい巻に取り替えられ、それを中国ではなく、チベットとイギリスが協定は拘束力があると受け入れたと述べた編集者の解説が付いたものが発表された。
脚注
- ^ Lin, Hsiao-Ting, "Boundary, sovereignty, and imagination: Reconsidering the frontier disputes between British India and Republican China, 1914-47", The Journal of Imperial & Commonwealth History, September 2004, 32, (3).
関連項目
外部リンク
- 条約全文
シムラ会議
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「チベット (1912-1950)」の記事における「シムラ会議」の解説
1913年から14年にかけてシムラにおいて英国、チベット(ガンデンポタン)、中華民国の三者の間で会議が開かれた。英国はロシアと中国がモンゴルに対して初期に行った合意のようにチベット人居住区を内チベットと外チベットに分割する提案した。外チベットはほぼ現在のチベット自治区と同じ地域であり、中国の総主権の下に自治し、この地域では中国は「行政への干渉」を控える。一方、東カム、アムド、ラサからなる内チベットでは宗教上での問題の支配のみが保たれるとした。1908年から1918年、中国の守備隊はカムにおり、地元の王子はその司令官に従属していた。 当時イギリスは中国のチベットを覆う宗主権を認識しており、チベットを中国の県に変えないという中国政府との合意とともに、中国領土の一部と同等にチベットの状態が断言されていた。 しかし、内チベットと外チベットの明白な境界線に関した点で交渉が決裂すると、英国の交渉長官であったヘンリー・マクマホンはチベット-インド国境にマクマホンラインとして知られる線を引いた。この線によって英国はおおよそ9000平方キロメートルものチベットの歴史的領域、タワン県を併合した。これは現在のインド北東端、アルナーチャル・プラデーシュ州に一致する。のちに中国政府はこのマクマホンラインが不法に多くの土地をインド側へ変えたと主張した。この地域はインドではアルナーチャル・プラデーシュ州と呼ばれ、中国では南チベットと呼ばれている。英国はすでに地元の族長たちと合意を締結して、1912年には運営のために北西辺境地域を立ち上げた。 シムラ条約は3者の代表団によって締結されたが、北京政府は外チベットと内チベットの間の国境を書くことに対する不満からすぐに合意を撤回した。このため、マクマホンとチベット人代表はこの合意に示された全ての事柄において中国のいかなる主張も拒絶する通牒の付託されたこの条約を、英蔵相互条約としてサインを行った。 英国の運営していたインド政府は最初は1907年に結ばれた英露協商に矛盾するとしてマクマホンの相互条約を拒絶した。しかし、マクマホンラインはその後も英国政府、ならびに独立後のインド政府にとって国境と捉えられた。一方、中国の視線に立てばこの土地は以前から中国領であり、中国はチベット全域に主権を主張しているうえ、この条約にサインを行っていないためにこの条約は無効であり、インドによるこの地域の併合と運営は違法であった。この双方の認識の違いは1962年の中印紛争へと結びつき、国境問題は現在も続いている。 1938年、英国は最終的に二国間協定としてシムラ条約を発効し、マクマホンライン以南のタワンの僧院にラサへ税を収めることを終えるように求めた。歴史を改訂する試みの中、C.U.アッチソンの「条約の収集」のなかの関連ある巻に、図書を見る限り元々シムラでは拘束力のある合意には達することが無かったとの注釈の付けられたものが発表されている。これは1929年の偽の発効日を持つ新しい巻に取り替えられ、それを中国ではなく、チベットとイギリスが協定は拘束力があると受け入れたと述べた編集者の解説が付いたものが発表された。 当初、英国政府にシムラ協定の正当性に疑問を持たせた1907年の英露協商は、ロシア側から1917年に破棄され、1921年には英露双方に破棄された。しかしながらチベットは1940年ごろマクマホンラインの位置を変えた。1947年遅くにはチベット政府は新しい独立インドの外務省に、マクマホンライン以南のチベット人地区に対する主張が述べられた書簡を書いた。中国政府はシムラ書簡にサインを拒んでいたことから、認識の一致として、マクマホンラインの正当性に逃げた。
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