シムラ会議とは? わかりやすく解説

シムラ条約

(シムラ会議 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/25 13:41 UTC 版)

シムラ条約(シムラじょうやく、英語: Simla Convention)とは、1914年7月3日にイギリス帝国チベットの間で調印され、チベットを形式的に中華民国の主権の下で実質的に独立した国家として認めた条約。ただし中国側は署名を拒否した。

経緯

イギリス帝国のチベット進出

モンゴル帝国清朝の庇護のもとで、中世から近世にかけてのチベットはダライ・ラマ政権による自治を獲得していた。イギリス帝国はインド植民地とした後に、北進してチベットを支配することを狙った。1903年にはヤングハズバンド率いるイギリス軍がチベット遠征を開始し、一時はチベット第1の都市であるラサ市も占領した。このため、1904年には当時のチベット自治政権の最高指導者であったダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命した。

清朝の攻撃

1904年から1906年にイギリス帝国と清朝との間で交渉がもたれ、イギリス帝国は一旦は清朝の宗主権を認めたものの、再度軍事侵攻を開始した。1905年には(ダライ・ラマ13世のライバルであった)パンチェン・ラマ9世イギリス領インドを訪問した一方で、1907年にはダライ・ラマ13世は北京を訪問している。イギリス帝国の軍事侵攻に対して1910年には清軍がチベットを攻撃したため、チベットの混乱は深まり、今度はダライ・ラマ13世はイギリス帝国インド領に亡命した一方で、翌1911年にパンチェン・ラマ9世がラサ市で清朝に協力した。

清朝の消失とイギリス帝国によるチベット独立の承認

しかし、辛亥革命で清朝が消失すると、イギリス帝国はチベットに介入し、1913年にイギリス帝国インド領に亡命中のダライ・ラマ13世をラサ市に戻し、政権の樹立を目指した。1913年から1914年にかけてイギリス帝国インド領北部の避暑地シムラ(Simla、Shimla)でイギリス帝国、中華民国、チベットで会議が実施された。イギリス帝国全権代表ヘンリー・マクマホンは、イギリス帝国インド領の国境線を北上させる条項(いわゆるマクマホンラインのこと)をチベットと締結したが、中華民国代表は署名を拒否した。

その後の動向

1938年、英国は最終的に二国間協定としてシムラ条約を発効し、マクマホンライン以南のタワンの僧院にラサへ税を収めることを終えるように求めた。なお、C.U.アッチソンの条約関連の記録に、「シムラでは拘束力のある合意には達することが無かった」との注釈が見つかっているが[1]、これは1929年の偽の発効日を持つ新しい巻に取り替えられ、それを中国ではなく、チベットとイギリスが協定は拘束力があると受け入れたと述べた編集者の解説が付いたものが発表された。

脚注

  1. ^ Lin, Hsiao-Ting, "Boundary, sovereignty, and imagination: Reconsidering the frontier disputes between British India and Republican China, 1914-47", The Journal of Imperial & Commonwealth History, September 2004, 32, (3).

関連項目

外部リンク


シムラ会議

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チベット (1912-1950)」の記事における「シムラ会議」の解説

1913年から14年にかけてシムラにおいて英国チベットガンデンポタン)、中華民国三者の間で会議開かれた英国ロシア中国モンゴルに対して初期行った合意のようにチベット人居住区を内チベットと外チベット分割する提案した。外チベットはほぼ現在のチベット自治区と同じ地域であり、中国の総主権の下に自治し、この地域では中国は「行政への干渉」を控える。一方、東カムアムドラサからなるチベットで宗教上で問題支配のみが保たれるとした。1908年から1918年中国守備隊カムにおり、地元王子はその司令官従属していた。 当時イギリス中国チベットを覆う宗主権認識しており、チベット中国の県変えないという中国政府との合意とともに中国領土一部同等にチベットの状態が断言されていた。 しかし、内チベットと外チベット明白な境界線関した点で交渉決裂すると、英国交渉長官であったヘンリー・マクマホンチベット-インド国境にマクマホンラインとして知られる線を引いた。この線によって英国おおよそ9000平方キロメートルものチベットの歴史領域、タワン県を併合した。これは現在のインド北東端、アルナーチャル・プラデーシュ州一致する。のちに中国政府はこのマクマホンライン不法に多く土地インド側へ変えた主張した。この地域インドではアルナーチャル・プラデーシュ州呼ばれ中国では南チベット呼ばれている。英国はすでに地元族長たちと合意締結して1912年には運営のために北西辺境地域立ち上げたシムラ条約は3者の代表団によって締結されたが、北京政府は外チベットと内チベットの間の国境書くこと対する不満からすぐに合意撤回したこのためマクマホンチベット人代表はこの合意示され全ての事柄において中国いかなる主張拒絶する通牒付託されたこの条約を、英蔵相条約としてサイン行った英国運営していたインド政府最初1907年結ばれた英露協商矛盾するとしてマクマホン相互条約拒絶した。しかし、マクマホンラインその後英国政府ならびに独立後のインド政府にとって国境捉えられた。一方中国視線立てばこの土地以前から中国領であり、中国チベット全域主権主張しているうえ、この条約サイン行っていないためにこの条約無効であり、インドによるこの地域併合運営違法であった。この双方認識違い1962年の中印紛争へと結びつき国境問題は現在も続いている。 1938年英国最終的に二国間協定としてシムラ条約発効しマクマホンライン以南のタワンの僧院ラサへ税を収めることを終えるように求めた歴史改訂する試みの中、C.U.アッチソンの「条約収集」のなかの関連ある巻に、図書を見る限り元々シムラでは拘束力のある合意には達することが無かったとの注釈付けられたものが発表されている。これは1929年の偽の発効日を持つ新しい巻に取り替えられ、それを中国ではなくチベットイギリス協定拘束力があると受け入れた述べた編集者解説付いたものが発表された。 当初英国政府シムラ協定正当性疑問持たせた1907年英露協商は、ロシア側から1917年破棄され1921年には英露双方破棄された。しかしながらチベット1940年ごろマクマホンライン位置変えた1947年遅くにはチベット政府新し独立インド外務省に、マクマホンライン以南チベット人地区対す主張述べられ書簡書いた中国政府シムラ書簡サイン拒んでいたことから、認識一致として、マクマホンライン正当性逃げた

※この「シムラ会議」の解説は、「チベット (1912-1950)」の解説の一部です。
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