「中国領土の枠組み」をめぐる解釈の衝突
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「中華民国の歴史」の記事における「「中国領土の枠組み」をめぐる解釈の衝突」の解説
中華民国を成立させた孫文を始めとする漢民族主体の革命勢力(共和主義勢力)の内部では、「中国とはなにか」、「中国人とは誰か」について、多彩な議論がかわされたが、武昌蜂起以降、権力奪取と共和国の樹立が実現の可能性を帯びてくるにつれ、朝鮮や「越南」(ベトナム)、「緬甸」(ビルマ)の「恢復」や「蒙古」(モンゴル)、「西蔵」(チベット)、「回部」(東トルキスタン)の自決容認などの理想論は影を潜め、清朝の支配領域をそのまま「中国の領土」とする方向が目指されることとなった。中華民国の歴代政府は、清朝の理藩院に相当する機関として、北京政府は蒙蔵院、南京国民政府は蒙蔵委員会を1929年に設置、チベットやモンゴルを統治下に組み込む為の工作に努めた。 一方、チベットのガンデンポタンおよびモンゴルのジェプツンタンパ政権は、中国の「天子」たる清朝の皇帝を、チベットの「文殊皇帝」およびモンゴルの「ハーン」を兼ねる「諸国の共主」と見なしていた。そのため辛亥革命により「文殊皇帝」「ハーン」が消滅したからには、チベット、モンゴルおよび中国はそれぞれ対等な別個の国家となる、と認識しており、それぞれ、チベット人およびモンゴル人の全居住地を統合すべく、中国軍と軍事衝突しつつ、独立国家として国際承認を受けることを目指し、国際社会への働きかけに着手した。 この紛争を調停すべく、モンゴルにはロシア、チベットにはイギリスが後ろ盾となって、キャフタ会議およびシムラ会議(1913年 - 1914年)が開かれた。この2つの会議では、チベットおよびモンゴルを主権国家・独立国家としては承認せず、「中華民国の宗主権下」での内政自治を行使するにとどめること、チベットのアムド(青海ほか)、カム(西康)部分、モンゴルの内蒙古部分は中華民国の直接統治下に置くこと、チベットおよびモンゴルの両民族政権はそれぞれの国土の中核部分(チベットは西蔵部分、モンゴルは外蒙古部分)だけを管轄すること、などを骨子とする協定案がまとめられた。 キャフタ会議では、モンゴル、中国およびロシアがキャフタ協定に調印、批准し、以後この協定にもとづく安定した関係が築かれ、後の南京国民政府による外蒙古部分のみを領土とするモンゴルの独立承認へとつながっていった。これに対し、シムラ会議では、ガンデンポタンが内政自治権を行使する領域の境界について合意が成立せず、シムラ協定の批准(1914年)はイギリス、チベットの2者のみにとどまり、以後もチベットと中国との間では、しばしば戦火を交える緊張状態が続くこととなった。
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