「中央道路」の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:18 UTC 版)
全国唯一の門前町県庁所在地である長野市は、不規則な市街地発展により道路が狭隘で、殊に1888年(明治21年)に長野駅が開業して以降は、増加する流入者や善光寺参拝客により往来に支障を来すようになっていた。1903年(明治36年)には錦町通り、1913年(大正2年)には寿町通り・相生町通り(現 権堂アーケード)・大正町通り(現 昭和通り)などの新道建設は進められていたが、長野駅と善光寺との間(当時は「大通り」などと呼ばれていた)は、当時狭いところで2〜3間(3.6〜5.4m)ほどの幅しかなかった。このため、1913年(大正2年)に告示された「長野市区改正計画」では、この「大通り」を8間(14.5m)に拡幅することが盛り込まれる。市民もその必要性は感じていたものの、到底不可能なこととして一笑に付していた。 しかし、1919年(大正8年)に地元有力者が合同で長野市に陳情したことで「中央道路」計画はついに動き出すこととなった。市会で可決の上長野県に陳情したところ、更に広い10間(18m)幅を県から「逆提案」されることになり、1921年(大正10年)に10間幅道路の整備が可決された。 翌年から東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸を視察し、路線計画が立てられた。当時善光寺表参道に数箇所あった屈折点の直線化と勾配の緩和により、末広町交差点に立てば広い道路の先に善光寺仁王門が一望できることを理想とし、また、街路灯の整備による夜景についても考えられており、交通の便はもちろんのこと、景観について特に注意が払われた計画であった。 「十間幅の道路は或は他都市に珍しくないかも知れぬ、然し東京銀座通りでさえ五十燭の照明に対して正に四倍の二百燭の點燈を施し、併も之が停車場近い起點より、一直線に善光寺へ達する、天輿の地形は恐らく先づ全国稀に観る處で、此の如き街路照明燈の完成は、確かに他へ誇るに足るを疑はない。」 —長野中央道路改修記 沿道家屋202戸すべての建替・改築・曳家を伴うこの大事業は、1923年(大正12年)に起工し、同年の関東大震災による工期の遅れはありながらも、1924年(大正13年)に完成。土地収用を極力平等にするために屈折点は1箇所残ってしまったが、それでも新田町交差点以北ではどこからでも善光寺仁王門が望める、街路灯139基が照らす中央道路が実現した。 沿道の各町でも、建物の建替にあたってそれぞれ申し合わせ事項を設け、統一感のある景観形成を目指した。このとき整備された建物は大門町界隈に現存しており、御本陳藤屋旅館を始め登録有形文化財に登録されているものも多い。
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