セルブ・モンテネグロ戦域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 05:06 UTC 版)
「第一次バルカン戦争」の記事における「セルブ・モンテネグロ戦域」の解説
ラドミル・プトニク将軍(後に公爵)指揮するセルビア軍は、ワルダル・マケドニア(現在のマケドニア共和国領域)で3度の決定的勝利を収め、この地域のオスマン軍を巧みに撃滅、第一の戦争目的であるマケドニア北部占領を達成した。また、セルビア軍は、モンテネグロ軍のサンジャク制圧を支援し、ブルガリアに対してもアドリアノープル攻略戦支援のため2個師団を派遣した。セルビア軍のマケドニア方面での最後の作戦は、アルバニア中部へ撤退しようとするオスマン帝国ワルダル軍の残党の阻止だった。このモナスティルの戦いの後、セルビア首相のニコラ・パシッチ(en:Nikola Pašić)は、プトニク将軍に対し、他国に先んじてサロニカを攻略するよう指示した。しかし、賢明にもプトニク将軍はこの指示を拒否し、代わりに軍をアルバニアへと西進させた。プトニクは、サロニカを巡ってギリシャとブルガリアが衝突することを予想し、そうさせることがセルビアのワルダル・マケドニア支配には好都合と読んだのであった。 その後、列強の干渉を受けてセルビア軍はアルバニア北部およびサンジャクから撤収することになったが、モンテネグロ軍のシュコドラ攻囲戦(en)の支援のため重砲は残置された。1913年4月23日、ついに兵糧が切れたオスマン軍が開城に応じ、シュコドラは陥落した。
※この「セルブ・モンテネグロ戦域」の解説は、「第一次バルカン戦争」の解説の一部です。
「セルブ・モンテネグロ戦域」を含む「第一次バルカン戦争」の記事については、「第一次バルカン戦争」の概要を参照ください。
- セルブ・モンテネグロ戦域のページへのリンク