セルベン・ハールガ碑文とは? わかりやすく解説

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セルベン・ハールガ碑文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 03:27 UTC 版)

ウルジャ河の戦い」の記事における「セルベン・ハールガ碑文」の解説

近年モンゴル国ヘンティー県バヤンホタグ郡のケルレン河南岸発見・調査されたセルベン・ハールガ(Serven khaalga)碑文その内容から『金史』に「[完顔襄ウルジャ河の戦い後に]遂に九峰の石壁勲功刻んだ(遂勒勲九峰石壁)」と記される碑文そのものであると明らかにされている。碑文は同じ内容伝え漢文面と女真文字面の2碑からなる碑文存在自体1980年代から学会知られていたが、本格的な研究始まったのは1991年加藤晋平白石典之らの現地調査以後のことであった。これ以後日本人研究者による碑文研究が行われ、一部判読不能な箇所除いて大部分文章解読された。碑文には以下のような文章刻まれている。 大金開府儀同三司尚書右丞・任国公の宗室完顔)襄、帝の命を奉じ師を帥いて北朮孛(阻卜)の背叛せるを討つ。アラフマ(阿剌胡麻)、キカンチワ(乞罕赤韈)、オリライ(斡礼頼)、バルス(伯速)、オチンジャリマ(訛真札里馬)、ブルンダラ(不論打剌)より追い来りて、ウルジャ(烏緇)河に至り、晨(早朝)に過半滅ぼし、[未解読、]班師(凱旋)す。時に明昌七年西暦1196年六月日なり。命じて[?]山名巤巌と曰う大金開府儀同三司尚書右丞・任国宗室襄、奉帝命帥師討北朮孛背叛由阿胡麻・乞罕赤韈・斡礼頼・伯速・訛真札里馬・不論打剌追来、至烏緇河、晨滅過半、打□回□□班師。時明昌七年六月日、命□山名巤巌。 — 完顔襄、セルベン・ハールガ碑文 日本人研究者白石典之はこの文章見られる地名所在地大部分明らかにし、そこから想定される金軍進軍ルート考察している。

※この「セルベン・ハールガ碑文」の解説は、「ウルジャ河の戦い」の解説の一部です。
「セルベン・ハールガ碑文」を含む「ウルジャ河の戦い」の記事については、「ウルジャ河の戦い」の概要を参照ください。

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