ウルジャ河の戦い
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ウルジャ河の戦い(ウルジャがわのたたかい)は、1196年に金朝・モンゴル(キヤト氏)・ケレイト連合軍と、タタル部軍の間で行われた戦闘で、連合軍の勝利に終わった。ウルジャ河は現代モンゴル語で「Улз гол(オルズ河)」と発音されるため、オルズ河の戦いとも表記される。
- ^ 『金史』巻94列伝32夾谷清臣伝,「夾谷清臣、本名阿不沙、胡里改路桓篤人也……受命出師、行尚書省事於臨潢府。清臣遣人偵知虚実、以軽騎八千、令宣徽使移剌敏為都統、左衛将軍充、招討使完顔安国為左右翼、分領前隊、自選精兵一万以当後隊。進至合勒河、前隊敏等於栲栳濼攻営十四、下之、 回迎大軍、属部斜出掩其所獲羊馬資物以帰。清臣遣人責其賧罰、北阻卜由此叛去、大侵掠。上遣責清臣、命右丞相襄代之」
- ^ 松田2016,55-56頁
- ^ 『金史』巻10章宗本紀2,「[明昌六年]十一月戊子、左丞相夾谷清臣罷、右丞相襄代領行省事」
- ^ 『金史』巻94列伝32瑤里孛迭伝,「瑤里孛迭……承安元年、丞相襄北伐、孛迭為先鋒副統、進軍至龍駒河、受囲、会襄引大軍至、得解。後授鎮寧軍節度使、以六群牧人叛、改寧昌軍」
- ^ 村上1972,282-285頁
- ^ 『モンゴル秘史』では戦場でそのまま称号授与がなされたかのように記されるが、称号授与という重大事を皇帝の裁可を得ずに現場で行ったというのは疑わしい。『金史』巻94にはウルジャ河の戦いから帰還した完顔襄が皇帝より「自由に士卒に賞賚することを許された」と記されており、或いはこの時に称号授与が決定されたのではないかと考えられている(松田2016,56頁)
- ^ 松田2016,57頁
- ^ 『金史』巻94列伝32内族襄伝,「丞相襄、本名唵、昭祖五世孫也……時左丞相夾谷清臣北禦辺、措画乖方、属辺事急、命襄代将其衆、佩金牌、便宜従事。……時胡里颭亦叛、嘯聚北京・臨潢之間。襄至、遣人招之、即降、遂屯臨潢。頃之、出師大塩濼、復遣右衛将軍完顔充進軍斡魯城、欲屯守、俟隙進兵。絵図以聞、議者異同、即召面論、厚賜遣還。未幾、遣西北路招討使完顔安国等趨多泉子。密詔進討、乃命支軍出東道、襄由西道。而東軍至龍駒河為阻卜所囲、三日不得出、求援甚急、或請俟諸軍集乃発。襄曰『我軍被囲数日、馳救之猶恐不及、豈可後時』。即鳴鼓夜発。或請先遣人報囲中、使知援至。襄曰『所遣者儻為敵得、使知我兵寡而糧在後、則吾事敗矣』。乃益疾馳。遅明、距敵近、衆請少憩。襄曰『吾所以乗夜疾馳者、欲掩其不備爾。緩則不及』。嚮晨圧敵、突撃之、囲中将士亦鼓譟出、大戦、獲輿帳牛羊。衆皆奔斡里札河。遣安国追躡之。衆散走、会大雨、凍死者十八九、降其部長、遂勒勲九峰石壁。捷聞、上遣使厚賜以労之、別詔許便宜賞賚士卒。九月、赴闕、拝左丞相、監修国史、封常山郡王。宴慶和殿、上親挙酒飲、解所服玉具佩刀以賜、俾即服之」
- ^ 『金史』巻94列伝32完顔安国伝,「完顔安国、字正臣、本名闍母……六年、左丞相夾谷清臣用兵、以安国為先鋒都統。適臨潢・泰州属部叛、安国先討定之、以功遷本路招討使、兼威遠軍節度使。承安元年、大塩濼之戦、殺獲甚衆、詔賜金幣。既而右丞相襄総大軍進、安国為両路都統、大捷於多泉子。襄遣安国追敵、僉言糧道不継、不可行也。安国曰『人得一羊可食十余日、不如駆羊以襲之便』。遂従其計。安国統所部万人疾駆以薄之、降其部長。捷聞、進官四級、遷左翼都統」
- ^ 安田2017,81-83頁
- ^ 白石2016,28-29頁
- ^ 白石2016,33頁より引用
- ^ 白石2016,35-44頁
- 1 ウルジャ河の戦いとは
- 2 ウルジャ河の戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘の経過
- 5 その後の影響
- 6 参考文献
ウルジャ河の戦い
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詳細は「ウルジャ河の戦い」を参照 1196年、テムジンがキヤト氏族のカンとして即位した頃、タタル部の首長メグジン・セウルトゥらが金朝の議に従わないということで、皇帝の命を受けた王京丞相(オンギン・チンサン、完顔襄)が軍勢を率いてタタル討伐を始めた。これを聞いたテムジンは父の仇を討つ絶好の機会と考え、同盟者であるケレイトのトオリル・カン(後のオン・カン)とともにタタルのメグジン・セウルトゥの所へ攻め入った。メグジン・セウルトゥは砦を築いて籠城していたが、テムジンらに捕えられ、その場で殺害された。これを聞いた王京丞相は大いに喜び、テムジンに「ジャウト・クリ」という称号を、トオリル・カンには「オン(王)」という称号を与え、以来トオリル・カンはオン・カンと呼ばれるようになった。
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