セルベラ艦隊の回航
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「パスクワル・セルベラ」の記事における「セルベラ艦隊の回航」の解説
キューバをめぐるアメリカとスペインの関係が悪化する中で1898年に米西戦争が勃発した。セルベラは艦隊を指揮して4月8日に装甲巡洋艦2隻を率いて本国を出港、14日にポルトガル領カーボベルデのサン・ヴィセンテ港へ進出した、同地で更に装甲巡洋艦2隻と駆逐艦3隻を加えた。23日にはアメリカがスペインに宣戦布告を行った。29日に艦隊は出港して大西洋を渡り、5月11日にフランス領マルティニーク島のフォール=ド=フランス近海へ達した。セルベラ艦隊は機関不調の駆逐艦1隻を分離し、更に14日にはベネズエラ北方沖のオランダ領キュラソー島(クラサオ島)へ渡った。アメリカ艦隊がスペイン領のキューバを封鎖したり、プエルトリコのサンフアンを艦砲射撃するなど、迎撃態勢を整える中、19日にはキューバのサンチャゴ・デ・キューバに入港することに成功した。
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セルベラ艦隊の回航
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「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の記事における「セルベラ艦隊の回航」の解説
キューバ方面のスペイン海軍戦力はハバナに巡洋艦アルフォンソ12世、砲艦インファンタ・イザベル、コンデ・デ・ベナディートー、マルケス・デラ・エンセナーダ、水雷砲艦ヌエバ・エスパーニャ、マルケス・デ・モルニス等。カルディニャスに水雷砲艦ビンケンテ・ユネス・ビンソン、シエンフエゴスに水雷砲艦ガリシア、サンチャゴ・デ・キューバに巡洋艦レーナ・メルセデス、プエルトリコのサン・ホアンに砲艦イザベル2世が所在していたがアメリカ艦隊の有力艦に対抗できる戦力ではなかった。 1898年4月7日、スペインのキューバ総督エレーナス中将からR.ヒロン植民地省大臣に軍艦派遣の催促があり、スペイン海軍大臣セヒスムンド・ベルメッホ(前大西洋艦隊司令長官)はパスクワル・セルベラ提督にポルトガル領カーボベルデ進出を命令した。4月8日、セルベラ提督は大西洋艦隊2隻(インファンタ・マリア・テレサとクリストバル・コロン)を率いてカディスを出港。海軍大臣は装甲巡洋艦2隻に加えてプエルトリコへ派遣予定の魚雷艇小艦隊(プルトン、フロール、アリエテ、アソールの4隻)と石炭船シウダ・デ・カディス号を本国から、ニューヨークとキューバから帰国中の装甲巡洋艦のビスカヤとアルミランテ・オケンドーもセルベラ艦隊に合流させことにした。14日、セルベラ艦隊がカーボベルデのサン・ヴィセンテ港に先着。この航海でテレサとコロンの熱効率が悪いことが判明。合流したアリエテとアソールのボイラーが劣化しており、艦隊随伴に失格と判定された。 4月15日、アメリカが戦争に備えて対応策として五個艦隊の編成を発表した。 北方パトロール艦隊、JAハウエル提督(デラウェア州からメーン州までの警備) モスキート艦隊 (沿岸警備、退役海軍軍人で組織) 遊撃艦隊、WSシュレイ提督(ハンプトンローズを起点に重要海域へ展開) 北大西洋艦隊、WTサンプソン提督(キューバとプエルトリコの封鎖が任務) アジア艦隊、Gデューイ提督(香港を基地にマニラを攻撃) 4月19日、ビスカヤとオケンドーがカーボベルデ諸島のサントビンセント港へ入港。長く航海しているビスカヤは船底の整備が必要。20日、プエルトリコ総督マシアスが植民地省大臣に救援艦隊の所在を問い合わせ、言外に応援を迫った。同日、セルベラ艦隊で幹部会議が行われた。プエルトリコ行きは艦隊の滅亡を意味し、カナリア諸島に艦隊を集めて防備する案で一致し、海軍大臣へ具申した。異例ながらセルベラの副官にしてテレサ艦長のコンカスも海軍大臣に直接具申を行った。また駆逐隊司令のヴィジャアミル大佐もサガスタ首相宛てに出撃の否を建策したが、政府の実力者で前植民地省大臣のP.S.モレ(サガスタと共に1885年に自由民主党を結成した実力者、後に1905年から1906年の首相)によって握り潰された。ラサガ艦長も野党保守党のフランシスコ・シルヴェラ党首(後の1907年に首相)に泣訴し、サガスタ首相に訓令の撤回を上申してもらったが不首尾に終わった。更にセルベラからの具申は21日22日と連続して上申された。この意見具申は各所をたらい回しにされてしまった。(根回しの結果、5月12日に海軍大臣より艦隊が必要と判断した場合は本国への帰還もありえるとの訓令が出されたが、時既に遅く大西洋を渡る前にセルベラのもとに届かず手遅れとなった。) 21日、アメリカが最後通牒を送り、海軍にキューバ封鎖を命令した。北大西洋艦隊サンプソンはキーウエストを出港してハバナの封鎖に向かった。22日、封鎖を受けたキューバ総督はスペイン艦隊の派遣をコルレア陸軍大臣に要請した。23日にはキューバ島西部北海岸のマタンサス、カルデナス、マリエル、カバーニャス等が封鎖された。 23日、アメリカがスペインに宣戦布告を行った。25日、マッキンレー大統領は23日の対スペイン宣戦布告の承認を議会に求め即日承認された。27日には南海岸のシエンフエゴスも封鎖した。スペイン側のセルベラ艦隊では21日と22日に海軍大臣よりプエルトリコの防衛を命令されており、準備に入り、29日にカーボ・ベルデのサントビンセント港を出港して大西洋を渡った。しかし出港までに宣戦布告があったことはセルベラ艦隊に通知されなかった。 フィリピン方面では、5月1日にマニラ湾海戦が行われ、スペイン・アジア艦隊の海軍戦力が壊滅した。本国ではベルメゾッホ海軍大臣が責任を取らされて後に更迭された。しかし、この情報もタイムリーにはセルベラ艦隊には伝わらなかった。フィリピン増援のためにスペイン本国では新たにカマラ少将の指揮する艦隊を編成し、6月末にエジプトのポートサイド着。7月初めに紅海まで進んだが、後述のサンチャゴ・デ・キューバ海戦の敗報により8日にスペイン政府から本国へ帰還の命令を受けてカタルヘナ目指して地中海を引き返した。このカマラ艦隊を攻撃するため、アメリカではワトソン代将指揮の東方艦隊が編成されつつあった。元々、ジョン・C・ワトソン代将はキューバ北岸の封鎖艦隊を率いており、主力艦がサンチャゴ封鎖に使われていたため、巡洋艦ニューアーク、モンゴメリー、マーブルヘッド、その他の小艦艇で構成された。この他、サンチャゴ沖以外では巡洋艦コロンビア、ミネアポリス、サンフランシスコが大西洋東北海岸の警備にあたっていた。 セルベラ艦隊装甲巡洋艦4隻(マリア・テレサ、ビスカヤ、オケンドー、コロン)と駆逐艦3隻(プルトーン、テルロール、フロール)の構成であり、大西洋を西進して5月11日にフランス領マルティニーク島のフォール=ド=フランス近海へ達した。テルロール、フロールの2隻を偵察に出し、翌13日、 フォール・ド・フランスに入港させて機関不調の駆逐艦テロール(艦長ファン・デ・ロチャ)を分離した。 この前日の12日にはアメリカのサンプソン艦隊(ニューヨーク、アイオワ、インディアナ、海防艦アンフィトライト、テラー、巡洋艦デトロイト、モンゴメリー、水雷艇ポーターの7隻)がプエルトリコのサンフアンを艦砲射撃するなど迎撃態勢を整える中、セルベラ艦隊は更に南進して14日にベネズエラ北方沖のオランダ領キュラソー島(クラサオ島)に入港した。一方のサムソン艦隊はハイチ島北岸のポルトー・プランスに集合。15日夜にセルベラ艦隊は出港して北上、18日夜にジャマイカ東端のモーラント岬沖通過した。サムソン艦隊はキー・ウェスト基地でシレイ艦隊と合流した。 セルベラ艦隊ではカリブ海に入ったものの主要港のハバナとシエンフエゴスが封鎖され、プエルトリコ方面も砲撃を受けて危険と判断されたため、緊急的に5月19日夜明けにキューバのサンチャゴ・デ・キューバ港に到着した。この2時間前まで仮装巡洋艦セントルイスが海底ケーブルの切断作業をしていたが入港を発見されることはなく、待ち構えていたアメリカ艦隊はセルベラ艦隊の捕捉に失敗した。こうしてセルベラ艦隊の回航は所要42日の航海を要して成功した。 セルベラ提督はサンチャゴ・デ・キューバへの到着をハバナ所在のキューバ総督ブランコと海軍工廠司令官マンテローラ、本国のアウニョン海軍大臣(新任)等の関係各所に連絡した。
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