第一次世界大戦時から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:53 UTC 版)
「テッサロニキ」の記事における「第一次世界大戦時から第二次世界大戦まで」の解説
第一次世界大戦時の1915年、連合国の遠征部隊はテッサロニキに親ドイツのブルガリアに対して作戦を行うため基地を設立した。マケドニア前線(英語版)またはサロニカ前線が設けられ最高潮に達している。1916年に親ヴェネニゼリズムの軍の将校や市民は共に連合国を支持し、国防運動(英語版)を始め親連合国の臨時政府「テッサロニキ国」を発足しせ、バルカン戦争後に獲得したマケドニアを含むギリシャ北部のほとんどと、北エーゲ、クレタ島の新しい領域を支配し、公式の政府であるギリシャ王国はもともとある王国の領域を支配していた。両者は対立していた。 テッサロニキ国はその後廃止され、ヴェニゼロスの下新政府が発足するが、ヴェニゼロス自身は自ら率いる政党の敗北から退き1917年にコンスタンティノス1世が王位に就き王制が復活する。 1917年8月18日に人気の無い厨房から出た火によって偶然起こった大火(英語版)によってテッサロニキ旧市街の建物のほとんどは焼失した。この大火は市中心部に燃え広がり、72,000人が住居を失い 、Pallisの報告書によればその多くは50,000人はユダヤ人たちであった。多くの仕事が失われ、70%は失業している。また、多くの宗教施設も失われている。当時、およそ271,157人居たテッサロニキの人口のうち4分の1の市民は家を失っていることになる。大火の跡、当局はテッサロニキの街をヨーロッパ風の都市計画に刷新するため直ぐの再建は禁止しトーマス・モーソンを含む建築家グループやフランスの建築家エルネスト・エブラールによる新しい近代都市が築かれた。 希土戦争によってギリシャがトルコに敗北し、オスマン帝国が終焉を迎えるとトルコとギリシャの間で大規模な住民の交換が行われた。160,000人を超えるギリシャ人が以前、オスマン帝国領であった土地を追われテッサロニキに再定住することになり、民族構成の割合が変わることになった。ムスリムたちは20,000人の範囲でトルコに追放されている。 第二次世界大戦時、テッサロニキはファシスト下のイタリア王国から激しい爆撃を受け、1940年9月には232人の死者と871人の負傷者、800以上の建物で被害を受け、ギリシャ・イタリア戦争でイタリアが苦戦を強いられた後に1941年4月8日にナチス・ドイツの占領下に入り1944年10月30日にギリシャ人民解放軍に解放されるまでその支配下にあった。ナチスドイツによりテッサロニキに居たユダヤ人は強制収容所に43,000人が連行されホロコーストの犠牲となった。この間、ナチスの傀儡政権であるギリシャ国の支配下にあった。
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