日本統治期
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太平洋戦争が勃発した直後の1941年12月25日、香港総督は日本に降伏した。日本統治の初期は軍政が敷かれた。1942年2月日本による占領統治機構が成立したが、太平洋戦争中でもあり、占領当局に教育の発展に振り向ける余力はなく、香港域外への人材流失による教師不足もあって、香港の教育は停滞する。そうした状況下ではあったが、占領当局は、香港における教育目標として「大東亜共栄圏精神」の宣揚、日本語教育の推進、短期専科学校の設立という3大目標を掲げた。 専門的な人材の不足への対処として、占領当局は香港に多くの専科学校を設立した。軍政開始後から続く教員不足問題を解決するため1942年には教員講習所を開設した。1943年3月には海員養成所(航海科及び機関科)を設置し、日本軍の海上輸送に従事可能な人材育成に着手している。その他同年5月には日本語教員育成を目的とした日語教員講習所を設置、10月には農業監督者を育成する目的の農事伝習所が相次いで開校している。 また占領直後閉鎖された各種学校は、民政に移行した1942年5月に光華、西南、知行、信修、港僑、湘父、鑰智、麗沢、華仁、聖保禄、培正、九龍塘、徳貞、徳明、聖保羅女校、聖瑪利、聖類斯工芸院、香港仔児童工芸院、中國児童書院の20校で授業が再開された。授業内容に週4時間以上の日本語が必須になったほか、英語の授業が廃止され、イギリスの教育制度に代わり日本の教育制度が実施されることとなった。これら香港の教育行政を実施するため、1943年に民治部に文教課が設置され、初代課長に長尾正道を任命、同時に『私立学校規則』と『日語講習所規程』を制定している。 戦前の香港における最高学府であった香港大学及び羅富国師範学院は1946年まで授業が停止された。また日本独自の学校としては1943年5月に東亜学院が現在の西営盤に設立され、政府機関や金融機関、商業関係の人材育成が行われた。 1945年3月、文教課は第1課と改編され、福簡定朝が課長に就任したが、まもなく終戦を迎え香港はイギリスが統治権を回復し、日本の教育制度は全廃された。
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