日本統治時代の金剛山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 09:43 UTC 版)
「金剛山 (朝鮮)」の記事における「日本統治時代の金剛山」の解説
日本では「くむがんさん」の名で呼ばれたが[要出典]、20世紀初頭は交通の便が極めて悪く、金剛山を訪れる人も極めて少なかった。しかし、その風貌が知られるにつれて「日本有数の名山」とされ、徳富蘇峰や若山牧水などの著名人が金剛山を紹介したこともあって、広く世に知られるようになった。やがて鉄原(てつげん / チョロン)から金剛山電気鉄道という私鉄によって内金剛の麓まで、朝鮮総督府鉄道の東海北部線によって外金剛の麓までアクセスが可能になると、金剛山は一大観光地となった。外金剛に当時朝鮮半島有数のスキー場が作られ、山スキーも盛んに行われるなど、金剛山には四季を問わず観光客が集まるようになり、日本式や朝鮮式の旅館が立ち並び大いに栄えたと言う。金剛山を国立公園とする運動も起こったが、それは実現しなかった。 7銭切手。当時日本領だった金剛山が描かれている 日本統治時代の神渓寺 外金剛玉流洞渓谷でヤマメ釣りをする日本人 朝鮮総督府鉄道局による1939年のパンフレット
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