日本統治時代以前(- 1895年)
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「日台関係史」の記事における「日本統治時代以前(- 1895年)」の解説
日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。 1593年(文禄3年)、豊臣秀吉が原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。 1609年(慶長14年)、幕府を通じ肥前有馬藩が台湾視察のために家臣を派遣。 1616年(元和2年)、長崎代官村山等安が子の村山秋安、臣下明石道友を台湾征討のため13隻の船団と共に台湾に派遣するが、暴風雨のため明国に漂着する。 1628年(寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。 1639年(寛永16年)、将軍の徳川家光と老中が、江戸に参府した平戸のオランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝政府の渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル船の渡航禁止を決定する。 1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人の混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ東インド会社を攻撃し、オランダを台湾から駆逐した。鄭成功は「反清復明」を果たす事なく死去したが、台湾独自の政権である鄭氏政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている。なお、鄭成功は中国や台湾では英雄と見なされており、福建省廈門市の鼓浪嶼では、鄭成功の巨大像が台湾の方を向いて立っているが、「中国で英雄視されている鄭成功が日本と中国のハーフであり、その弟が日本人として育ち日本で商売をしていたというのは、中国人からすると複雑な感情なのかもしれない」という指摘がある。 1871年(明治4年)12月17日、琉球・那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾南端に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。 「宮古島島民遭難事件」も参照 1874年(明治7年)5月、陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。
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