諸王家の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)
しかし、1265年2月にフレグが突如死去し、続いて1266年初めにはこれを好機としてカフカスを南進して来たベルケも陣没、チャガタイ・ウルスを支配するアルグも程なく死亡するという一連の事態によって、西アジア・中央アジア情勢は再び不穏となった。クビライは緊急措置としてイルハン朝の後継者としてフレグの長男アバカを任命し、ジョチ家の当主にはバトゥの孫モンケ・テムルを任じ、アルグにかわってチャガタイ家の当主には、第2代当主カラ・フレグとその妃オルガナとの息子ムバーラク・シャーを任命した(このオルガナはカラ・フレグの死後に当主となったアルグと再婚し、アルグの没後はチャガタイ家の監国となっていた)。この時、ムバーラク・シャーはまだ成人間もないため、クビライはカラ・フレグの甥にあたるバラクを重ねて派遣してチャガタイ家を共同統治させることにした。
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