日鷹堅磐とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 日鷹堅磐の意味・解説 

日鷹堅磐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/30 21:56 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

日鷹 堅磐(ひたか の かたしわ)は、日本古代の豪族。外交官。

経歴

日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇7年(推定463年)、天皇の命で吉備上道氏が集めてきた百済の今来(いまき)の才伎(てひと=技術者)たちを迎えに、「日鷹吉士堅磐固安銭」(ひたか の きし かたしわ こあんぜん)が「大嶋」へ派遣された、とある[1]

この日鷹吉士堅磐(ひたか の きし かたしわ こあんぜん)であるが、

  1. 「日鷹吉士堅磐」と「固安銭」なのか
  2. 「日鷹吉士」と「堅磐固安銭」なのか
  3. 「日鷹吉士堅磐(固安銭)」なのか

で意見が分かれている。 1.の場合は、「日鷹堅磐」と「固安銭」という二人の人物が才伎らのいる「大嶋」へ派遣されたことになり、天皇の使者は二名だということになる。 2.の場合も使者は二名だが、堅磐を『和名類聚抄』の「筑前国穗波郡堅磐郷」と解釈し、「(氏または名の不明な)日鷹」と「堅磐在住の固安銭」となる。 3.は「吉士」が渡来人系の姓であるところから、帰化以前の本名が「固安銭」で、日本へ来てからの通称が「日鷹堅磐」だとする同一人物説である(ラフカディオ・ハーンと小泉八雲のように)。

「日鷹」は「日高」であり、紀伊国日高郡を本拠地とする姓「吉士」の一族が、難波吉士一族に包括された、と見ることもできる。「吉士」とは、日本に帰化した朝鮮人の名につける敬称で、渡来系氏族で、難波(なにわ)、草壁(くさかべ)、日鷹(ひたか)などが例としてあげられ、主に文筆や通訳など外国との事務折衝を職務としたと言われている。

「日高吉士堅磐」は、雄略天皇9年2月に、天皇の命で凡河内香賜(おおしこうち の かたぶ)を誅殺するために派遣された難波日鷹吉士(なにわのひたかのきし)と同一人物だとする説も有力である。このとき、香賜は既に逃亡しており、その後、三嶋郡の藍原(あいのはら[2]にて弓削連豊穂(ゆげ の むらじ とよほ)に捕らえられて殺された[3]

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 『日本書紀』雄略天皇7年是歳条
  2. ^ 『和名類聚抄』には、摂津国島下郡安威郷とあり、『書紀』巻第十七、継体天皇25年12月5日条には天皇の陵墓として「藍野陵」がある。現在の大阪府茨木市大田あたり)
  3. ^ 『日本書紀』雄略天皇9年2月1日条

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日鷹堅磐」の関連用語

日鷹堅磐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日鷹堅磐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日鷹堅磐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS