出雲広貞とは? わかりやすく解説

出雲広貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 09:16 UTC 版)

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出雲広貞
藤浪剛一『医家先哲肖像集』より出雲広貞
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 正五位下信濃権守
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 出雲宿禰朝臣
父母 父:出雲嶋成
菅原峯嗣、菅原春江
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出雲 広貞(いずも の ひろさだ、生没年不詳[1])は、平安時代初期の貴族医師のち宿禰朝臣侍医・出雲嶋成の子。官位正五位下信濃権守

経歴

摂津国出身[2]延暦23年(804年)の年末から病に伏していた桓武天皇に対して、昼夜怠らず治療にあたった功労により、翌延暦24年(805年)正月に正六位上から従五位下に昇叙される。同年11月左京に貫附される。

平城朝では、中内記典薬助・侍医を務めると共に、美作権掾但馬権掾近国国司を兼ねた。また、平城天皇の命を受けて衛門佐安倍真直と共に各地方・諸家に伝わる調薬の方法を編纂し、大同3年(808年)に日本初の医薬書となる『大同類聚方』として撰上している[3]

嵯峨朝でも引き続き侍医を務める傍ら、弘仁2年(811年)に内薬正を兼ね、のち信濃権守も務めた。またこの間に、大同5年(810年)従五位下、弘仁11年(816年)従五位上、弘仁13年(818年)正五位下と昇進し、弘仁3年(812年)には宿禰姓に改姓している。

医書『難経開委』を著したとされるが、散逸して現存しない。

官歴

日本後紀』による。

系譜

  • 父:出雲嶋成[5]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女

脚注

  1. ^ 上田正昭ほか監修、三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第5版』 三省堂、2009年、109頁。 
  2. ^ 日本後紀』延暦24年11月29日条
  3. ^ 『日本後紀』大同3年5月3日条
  4. ^ a b c 『日本三代実録』貞観12年3月30日条
  5. ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻5,出雲

参考文献


出雲広貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:00 UTC 版)

仁王2」の記事における「出雲広貞」の解説

平安時代初期医師。病に伏せった帝を昼夜問わず厚く看病した功で、侍医となる。その後勅命によって各地に伝わるに関する知識技術をまとめ、日本最古医学書とされる大同類聚方』を記した守護霊アマビエ

※この「出雲広貞」の解説は、「仁王2」の解説の一部です。
「出雲広貞」を含む「仁王2」の記事については、「仁王2」の概要を参照ください。

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