木村栄とは? わかりやすく解説

きむら‐ひさし【木村栄】

読み方:きむらひさし

18701943天文学者石川生まれ岩手県奥州市緯度観測所緯度変化観測従事明治35年(1902)、緯度変化の公式にZ項木村項)を付加すべきことを提唱文化勲章受章

木村栄の画像

木村栄 きむら ひさし


(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)

木村栄(きむらひさし 1870ー 1943)

 理学博士天文学者水沢緯度観測所初代所長
 木村栄は、石川郡泉野村現在の金沢市泉野町)に生まれ1892年東京帝国大学星学科卒業した1894年震災予防調査会嘱託北海道地磁気測定従事1896年から同会の事業として東京天文台緯度変化観測した1896年から1897年まで、陸軍陸地測量部修技所で星学教えた
 明治31年(1898)の万国測地学協会総会において、国際共同緯度観測所北緯3908分上に 6カ所設置することになり、日本では、翌明治32年水沢候補地となり、緯度観測所設置された。
 この時期は、日清戦役の後の経済状況厳しい状況であり、アメリカロシアイタリア次いで日本緯度観測所設置した明治政府決断驚くべきものといえる。木村は、この観測所設置に関して田中館愛橘とともにポツダムに赴き観測方法討議加わりそののち観測所初代所長となり緯度変化観測研究あたった
 観測始まりデータ中央局送付したところ、中央局からは水沢データ精度が悪いので、他局2分の1評価とした報告された。木村は、データ計算点検し天頂儀分解し調査した原因は見つからず悩んだ。ところが点検進めるうち、中央局に対して水沢データ一定の周期変化していること、中央局対す緯度変化変動対し従来変換式新たな一項加えることで観測結果適合することを発見した(1902)。いわゆる緯度変化Z項発見である。これは、日本人天文学画期的貢献をした嚆矢である。
 その後1922年から1936年間水沢に置かれ緯度変化国際中央局局長努め功績により帝国学士院恩賜賞文化勲章受章した
画像


木村栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 03:12 UTC 版)

木村 栄
(きむら ひさし)
生誕 1870年10月4日明治3年9月10日
日本 石川県金沢市
死没 (1943-09-26) 1943年9月26日(72歳没)
日本 東京都世田谷区
研究分野 天文学
研究機関 緯度観測所
出身校 東京帝国大学
主な業績 位置天文学の研究
Z項の発見
主な受賞歴 学士院恩賜賞1911年
王立天文学会ゴールドメダル1936年
文化勲章1937年
プロジェクト:人物伝
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木村 栄(きむら ひさし、旧字体:1870年10月4日明治3年9月10日)- 1943年昭和18年)9月26日)は、日本天文学者理学博士Z項(木村項)の発見者。恩賜賞 (日本学士院)、英国王立天文学会ゴールドメダル受賞者。

略歴

石川県石川郡野村字泉野(現・石川県金沢市泉野町)出身[1]。幼い頃に漢学塾を経営する親戚の木村民衛の養子となり、上山小三郎から数学を学ぶ[2]。この時の学友に西田幾多郎がいる[3]

幼少期より優秀であった木村は、1880年(明治13年)に県立の石川県専門学校に一番で入学し(但し同校開校は1881年)、1885年に赴任した北条時敬に学んで数学に目覚め、1887年に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進み、今川覚神より天文学を学んで、1889年に首席で卒業した[2]

同年、東京帝国大学理科大学星学科に入学し、寺尾寿位置天文学[4][5]田中舘愛橘地球物理学を学んだ[4]

1892年(明治25年)に大学院に進み、震災予防調査会の命を受けた田中舘愛橘教授の下で全国地磁気測量を始め、1895年に、嘱託として「緯度変化観測方」となり、緯度観測を行った[2]。同年、万国測地学協会の総会において、世界6か所で国際緯度観測を行う事業が決まり、翌1896年、田中舘とともに日本の観測地として岩手県胆沢郡水沢町を選定。1898 年(明治31年)1月には、日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎とともに出張[6]。同年7月、ドイツ帝国で開かれた万国測地学協会総会に田中舘とともに出席し、観測する星の選び方を提案し、採用される[2]

1899年(明治32年)に帰国し、水沢緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)の所長に就任[1]。1902年(明治35年)1月にZ項の発見論文を発表し、国際的に認められ、1904年理学博士号を取得[2]。1906年(明治39年)9月、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陸軍少将田坂虎之助とともに参列[7]。1911年(明治44年)第一回学士院恩賜賞を受賞[1]

国際緯度観測事業中央局を務めていたドイツが1918年(大正7年)の第一次世界大戦の敗戦より中央局を続けられなくなり、1922年に木村の水沢観測所が中央局に推挙され、中央局長に就任する[2]。1925年(大正14年)、帝国学士院会員となる[8]。1935年に国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行し、翌年中央局長を辞任、中央局はイタリアに移った[2]。同年、王立天文学会ゴールドメダルを受賞、翌1937年(昭和12年)に第1回文化勲章を受章した[1]。受賞のコメントは水沢の観測所官舎で行っている[9]。1941年まで水沢緯度観測所に在職し[8]、同年、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行した[2]

持病の喘息が悪化し、1943年(昭和18年)、東京都世田谷区の自宅で死亡、72歳[8]。墓所は多磨霊園[8]

業績

1902年(明治35年)に緯度変化のZ項を発見した[1][10][11]

家族

  • 実父・篠木庄太郎 - 菜種油の生産や酒造りなどを手広く商う素封家で、石川郡の郡会議員も務めた。[2]
  • 養父・木村民衛 - 1867年に木村塾を開き、約2000人の門弟を育てた。子がなく、榮を養子とした。[2]
  • 妻・真佐喜 - 石川県士族・島倉勝則長女
  • 長女・伊登子は物理学者茅誠司と結婚したので[8]、茅は木村の娘婿にあたる[8]
  • 工学者茅陽一化学者茅幸二は孫[8]

著書

水沢での評価

水沢VLBI観測所がある岩手県奥州市水沢では、この業績をたたえ、「Z」の文字を色々なところに使っている。

逸話

  • 月の裏にあるキムラクレーター(Kimura、1970年命名)の命名は、木村栄の功績を称えてのものである。
  • 宮沢賢治の童話『風野又三郎』(『風の又三郎』の先駆作品の一つ)には、水沢の緯度観測所でテニスに興じる「木村博士」が登場する場面がある。賢治自身が水沢緯度観測所をたびたび訪問しており、その際の見聞に基づくものと考えられている。
  • 夏目漱石は『学者と名誉』(1911年)という小論において、木村の表彰によって、木村のみを称揚し、その他の学者に配慮のない帝国学士院とそれをただ徒に吹聴する新聞雑誌の姿勢を批判している[12]
  • 早くかつ正確な暗算とそろばん術を身に付けており、全ての研究の計算に使われたのはそろばんであった[13]
  • 金沢市が設置する金沢ふるさと偉人館で、金沢ゆかりの偉人として紹介されている[14]
  • 出生地である泉野町近辺を校区とする金沢市立泉野小学校の敷地内には、彼の銅像がある[14]。また校区が隣接する金沢市立十一屋小学校には、歴史記念室の一画に彼の展示コーナーがある[14]
  • 出生地の近くにある泉野櫻木神社の標柱の字は、木村が書いたものである[14]

脚注・出典

  1. ^ a b c d e 日本の科学者・技術者100人 木村栄 1頁
  2. ^ a b c d e f g h i j 木村榮の人となり木村榮記念館
  3. ^ 『西田幾多郎全集』第12巻 岩波書店、1979年、「木村榮君の思出」
  4. ^ a b 日本の科学者・技術者100人 木村栄 4頁
  5. ^ 日本の天文学者の系図
  6. ^ 『日本の天文学の百年』日本天文学会百年史編纂委員会、2008、p10
  7. ^ 『官報』第7331号、明治40年12月4日。
  8. ^ a b c d e f g 歴史が眠る多磨霊園 木村栄
  9. ^ 受賞者の業績と略歴『大阪毎日新聞』(昭和12年4月27日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p655 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  10. ^ 日本の科学者・技術者100人 木村栄 2頁
  11. ^ Astronomical Journal 22巻517号
  12. ^ 学者と名誉夏目漱石、青空文庫
  13. ^ 日本の科学者・技術者100人 木村栄 3頁
  14. ^ a b c d 近代日本を支えた偉人たち 【木村 栄】(金沢ふるさと偉人館公式ページ)2022年11月14日閲覧

参考文献

  • József Ádám (2000). “Geodesy in Hungary and the Relation to IAG around the turn of 19th/20th Century - A Historical Review”. Journal of Geodesy英語版 74 (1): 7–14.  - 12頁図6として第15回万国測地学協会総会におけるマルギット島への観光旅行での集合写真あり。木村は (8) として紹介されているが、正しくは (58) であり、(8) は (3) として間違えて紹介されている田坂虎之助、(3) が協会中央局から案内を受けて総会に陪席した新城新蔵

関連項目

外部リンク


木村榮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 01:23 UTC 版)

木村 榮(木村 栄、きむら さかえ、女性、1940年 - )は、文筆家

来歴

東京生まれ。1962年お茶の水女子大学文教育学部国文科卒、日本テレビに入社、72年退職しフリーとなる。

著書

  • 『母性をひらく 子とともに歩む自立への道』汐文社 同時代叢書 1980
  • 『父親の自立と子育て』汐文社 1982
  • 『迷いつつ母』大月書店 1991
  • 『30年目の同窓会 民主教育一期生の「女の時代」』筑摩書房 1994
  • 『どこでどう老いるか 医療と介護の現場から』講談社現代新書 1996
  • 『女が年齢を愉しむとき』はるか書房 2000
  • 『女友だち』フェミックス、2012

共編著

参考

  • 『女友だち』著者紹介 

外部リンク




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