岩橋善兵衛(いわはしぜんべい 1756~1811)
岩橋善兵衛は、現在の大阪府貝塚市に生まれ、幼いころから利口で、器用でもあり自然科学に関心が深かったという。
成人して眼鏡職人となり、オランダ渡来品の望遠鏡を参考に研究を重ね独自の望遠鏡を製作した。1793年38歳のとき、板で筒を作りレンズをはめた望遠鏡を製作し、これを窺天鏡(きてんきょう)と名付けた。その後も望遠鏡に改良を続け、紙を幾重にも巻いて漆を塗った一閑張望遠鏡や竹筒製の望遠鏡などを製作した、完成した望遠鏡は、舶来品に劣らない性能を持つものであったという。
当時の日本で、自らレンズを磨き、望遠鏡製作を専業としていたのは善兵衛だけであった。善兵衛がレンズを磨いて製作した望遠鏡は、寛政改暦時には幕府の天文方にも、伊能忠敬の全国測量にも望遠鏡が使用された。そのほか、紀伊和歌山の徳川家、近江彦根の井伊家、播磨明石の松平家などの諸大名、そして江戸、大阪、京都などの各地の学者などに、天体観測や軍事・航海目的として幅広く用いられた。
また、月の満ち欠けや星の位置や大阪湾の潮の干満を読み取るオリジナル星座早見盤(平天儀)なども製作した。

岩橋善兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/18 04:48 UTC 版)
岩橋 善兵衛(いわはし ぜんべえ、宝暦6年(1756年) - 文化8年5月25日(1811年7月15日))は江戸時代の望遠鏡製作者である。
生涯
現在の大阪府貝塚市脇浜新町の商人(魚屋)の家に生まれた。眼鏡の玉磨きを家業として独立し、自然科学に興味を持ち易学者・皆川淇園などと交流した。渡来品の研究を行い寛政2年(1790年)頃、望遠鏡を作り評判を得た。その後も望遠鏡を製作し、多くの天文学者、大名に用いられた。岩崎家はその後4代にわたり望遠鏡を製作した。
業績
自らレンズを磨いて製作した望遠鏡は当時の日本の天文学者・高橋至時や間重富に用いられたほか、大名たちにも用いられた。ほかに、太陽、月、星の運行を観測し、干満を計算する「平天儀」を製作し、『平天儀圖解』を著した。
貝塚市には貝塚市立善兵衛ランドが設立されている。
望遠鏡
これまで岩橋善兵衛一門の望遠鏡は18例現存しており、18例目として2017年(平成29年)2月に、富山県射水市の射水市新湊博物館で発見された長さ2m95cm(縮めた状態で84cm)、1808年(文化5年)作の望遠鏡が国内最長である。
これは新湊地区放生津の元木材商の子孫が、2016年(平成28年)5月に同博物館に寄贈したもので、木製の接眼部と、紙と木を張り合わせた5つの筒6点で構成された望遠鏡外部の彫り込みには、一門の特長である金泥を用いた精緻(せいち)な車形模様が、望遠鏡内部には岩橋の銘と文化5年の墨書きがある。また内部のレンズは4枚で、これまで発見されているものと違い、光の乱反射を防ぐ目的と思われる筒内部が黒く塗られている。しかし、レンズ等が損傷しており使用できない状態である。なお2番目に長いものは2m34cmで、伊能忠敬が使用していたものである[1]。
脚注
参考文献
- 小林英輔 「江戸時代の天文学【10】 岩橋善兵衛 (PDF) 」『天文教育』96号、天文教育普及研究会、2009年1月
関連項目
外部リンク
- 善兵衛ランド - 貝塚市
- 府指定の文化財一覧(歴史資料) - 大阪府の文化財
- 岩橋(子孫が経営する宝飾店) - 心斎橋筋商店街公式ホームページ
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