石黒信由(いしぐろのぶよし 1760-1836)
石黒信由は、宝暦 10年(1760)越中国高木村(現新湊市高木)の肝煎を勤める豪農の家に生まれ、幼名を与十郎といった。早くに父を亡くしたが祖父に育てられ、幼いときから算学に興味を持ち、23歳の時富山の中田高寛に師事し、関流和算を学んだ。その後、宮井安泰に測量術を西村太沖に暦学などを学び、寛政7年(1795)以降には検地などの御用を努め、その後は加賀藩の命を受け、新田開発や用水事業の測量に従事した。
石黒は、新田開発における高低差の少ないところでの用水の測量に、人足に"ガンドウ"と呼ばれる回転するろうそく立てを持たせて行う「笠測量」と呼ばれる水準測量の手法を用いた。
享和3年(1803 石黒43歳)8月3・4日には、放生津(新湊市)で伊能忠敬と接見し、その際忠敬の使用する測量機器に興味を示したという。信由が本格的な測量と地図作成に従事したのは、60歳(文政 2年 1819)になってからであり、忠敬との出会いが、その後の測量などに大きな影響を与えたといわれる。
これ以降、それまでの実績が認められ加越能三州の測量を担当することとなり、「加越能三州郡分略絵図」などを作成した。信由の残した地図は、内陸部を含む実測図が多く、極めて精度の高いもので、忠敬の日本全図と並ぶものといわれる。信由の孫信元、その曽孫信基も志を継いで算学・測量に功績を残し、門人も測量・新田開発の職に就いた。著書として、「増補大路水径」などがある。
生家の一隅にあった高樹文庫には、信由の作った地図や象限儀などの測量機器など、石黒家の学問の足跡を残す1万2千点が残されていたが、平成10年(1998)秋に道の駅に併設して新湊市博物館が開館し、信由の遺物もここに移された。同館には、信由の使用した測量機器と作製した地図が展示されている。

石黒信由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 08:24 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動石黒 信由(いしくろ のぶよし、宝暦10年11月18日(1760年12月24日) - 天保7年12月3日(1837年1月9日))は、江戸時代の越中の和算家・測量家、天文家。通称は藤右衛門[1]。
人物
越中国射水郡高木村(現富山県射水市高木)の肝煎の家に生まれた。早くに父を亡くし、祖父母に育てられた。23歳の時、富山の和算学者中田高寛に和算を学んだ。そのほか測量・暦学なども学んだ。伊能忠敬が享和3年(1803年)に沿岸調査のために越中を訪ねた際には、現在の射水で会い、測量の方法や器械について意見を交換した[2]。伊能は、8月1日能登から越中に入り、8日までに越中海岸全体の測量を終えている。3日に堀岡から海老江までの測量を終えた伊能は廻船問屋柴屋彦兵衛の家に泊まるが、信由が訪問し、象限儀などの天体観測を見学し、翌日から四方(よかた)方面の測量に同行した。ワンカラシンなどの測量器具を記録に取らせてもらい、改良を加えた。加賀藩の命により越中国・能登国・加賀国の測量を行い『加越能三州郡分略絵図』を制作・提出した。現在の地図とほとんど変らない[3]。
石黒信由関係の書籍、文書、地図、測量器具などの遺品は、射水市の一般財団法人高樹会「高樹文庫」が所有している(射水市新湊博物館に寄託)。このうち6,392点が「石黒信由関係資料」として国の重要文化財に指定されている[5]。
子孫
3代目の石黒信之は『越後国山下三駅見取絵図』(1838年)を作成、4代目の石黒信基は『皇国総海岸図第一武蔵湾』の複製(幕府が1855年頃作成したのものを1863年に書写)をそれぞれ藩の命で行った。石黒信由の資料とともに子孫の関係資料も評価され、2019年には重要文化財「石黒信由関係資料」に子孫3代の資料が追加指定された[5][6](「石黒信由関係資料」については射水市新湊博物館参照)。
関連項目
脚注
固有名詞の分類
- 石黒信由のページへのリンク