日本初のPFI刑務所となった旧豊浦社宅
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「大嶺炭田」の記事における「日本初のPFI刑務所となった旧豊浦社宅」の解説
「美祢社会復帰促進センター」も参照 1983年(昭和58年)、美祢市長から山口県に対し、山陽無煙炭鉱最大の社宅であった豊浦社宅の跡地に企業誘致を行うための協力要請がなされた。その後1991年(平成3年)、山口県は通産省に対し、素形材タウン構想のモデル地区申請を行い、同年7月に全国3か所のモデル地区の一つに指定された。そこで県と市は合同で素形材タウン建設推進協議会を設立し、構想の早期実現を目指した。同年、美祢市は美祢市新総合計画「新生みね2001プラン」を策定するが、計画の三本の柱のうち一つが豊浦社宅の跡地に建設される工業団地、美祢テクノパークであった。 1994年(平成6年)7月、地域振興整備公団が工業団地の造成を開始した。1997年(平成9年)3月には総面積約43.4ヘクタール、うち13区画の工業用地約28.1ヘクタールの美祢テクノパークが完成し、同年9月から分譲が開始された。しかし美祢テクノパークは宇部フェニックステクノポリス計画の中で、内陸部における生産拠点とされたものの、バブル崩壊後の景気低迷のあおりを受け、全く企業が進出しない状況が続いた。 美祢市の人口減少に歯止めがかからない中、企業誘致が期待された美祢テクノパークには1社も進出しない状況が続き、地域を活性化させるための施策が大きな課題となっていった。ちょうど同じ頃、犯罪情勢の悪化に伴い受刑者が増加し、刑務所の過剰収容が深刻な問題となっていた。2001年(平成13年)から法務省は既存の刑務所の増改築を行い、過剰収容の解消を目指したもののとうてい間に合わなかった。そこで刑務所の新設が大きな課題となったが、新設となると国の厳しい財政状況も考慮に入れざるを得なかった。そこで1999年(平成11年)に制定された、「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」を活用することになった。PFI(Private Finance Initiative)、つまり民間の資金、ノウハウを活用して公共施設の整備を行う手法を用いて刑務所を新設することになったのである。 PFI事業による刑務所の新設という方針が決定されると、全国51か所から誘致の声が上がった。美祢市でも2001年(平成13年)、美祢市議会に美祢テクノパークへの刑務所誘致を協議する活性化対策特別委員会が設置され、美祢市長と市議会が国と山口県に対して誘致活動を開始した。地元住民から不安や戸惑いの声も上がったものの、刑務所新設に伴う経済効果への期待が上回り、誘致に対する熱意が盛り上がっていく中、山口県も知事が法務大臣に誘致を要請するなど支援を行った。 2004年(平成16年)1月、法務省は美祢テクノパークにPFI刑務所を建設することを決定した。全国各地の候補地間で誘致合戦が行われた中、美祢テクノパークが選ばれた理由としては 深刻化している刑務所の過剰収容問題への対応を考えると、美祢テクノパークは造成済みの工業団地であり、短期間で建設に着手可能で竣工も早くなるので望ましい。 受刑者に対する医療対応の面からも、総合病院が近くにあるため望ましい。 地域からの反対運動が見られないこと。 地域振興、地域活性化に寄与できる見通しがあること。 敷地が広いため、将来の増改築にも対応可能であること。 などが挙げられた。 2006年(平成18年)1月、美祢テクノパークの地で建設工事が開始され、2007年(平成19年)5月13日、日本初のPFI刑務所である美祢社会復帰促進センターの開庁式が行われた。こうして山陽無煙炭鉱最大の社宅であった豊浦社宅の跡地は、工業団地美祢テクノパークを経て日本初のPFI刑務所となった。
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