日本初のアニメーション映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 10:13 UTC 版)
「下川凹天」の記事における「日本初のアニメーション映画」の解説
1916年、天然色活動写真株式会社(天活)からアニメーション製作の人材を紹介してほしいという話が楽天パック社に持ち込まれ、両者の話し合いの結果、凹天が推薦されることになる。凹天は月給50円で歩合付きという好条件と日本初のアニメーション製作という熱意もあってその仕事を引き受ける。 資料が少ない中、凹天はアニメーションの研究を行う。同時期、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、凹天が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開された。公開順では国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度で、それぞれ同時期に独自の方法で製作に着手しているため、3人ともアニメーションの創始者として扱われている。 凹天は当初、黒板にチョークで絵を描いて撮影してから、少しずつ絵を消したり書き加えたりしながら1コマずつ撮影する方法をとっていた。3作目の『茶目坊新画帳 蚤夫婦仕返しの巻』までは、この方法をとっていた可能性が高い。続いて用いたのは、3種類ほどの背景画を大量に印刷し、それぞれの一部分にホワイトを塗って消し、そこに登場人物を描いて撮影する方法であった。ところが、この撮影に使った電球の光がもとで眼病を患い、1年半入院。天活を辞めることになり、以後アニメーション制作に関わることはなかった。日本アニメのパイオニアが皮肉にもアニメーターの職業病第1号となってしまったのである。
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