幸内純一
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幸内 純一(こううち じゅんいち[注釈 1]、1886年〈明治19年〉9月15日 - 1970年〈昭和45年〉10月6日)は、大正から昭和初期に活躍した漫画家、アニメーション演出家である。
注釈
- ^ 自身のアニメ制作スタジオの社名にスミカズを使用したため、こういち すみかず説もある[1]。
- ^ 1907年(明治40年)12月という解説もある[3]。
- ^ 幸内純一は1917年(大正6年)2月まで毎夕新聞の一面で漫画を担当したと発言
- ^ 津堅信之は、翠川稔による「天活や日活でのアニメーション制作を知った小林喜三郎が幸内を担ぎ出した」という推測[6]に説得力を見出している[7]。小林が小林商会を設立したのは1916年(大正5年)10月である。
- ^ 『芋川椋三玄関番の巻』が1917年(大正6年)1月に公開されたとの説による。Frederick S Littenは『芋川椋三玄関番の巻』は4月公開の作品であり、1月に公開されたのは未発見の別の作品であると解説[8]。
- ^ 津堅信之の著書に全文引用されている
- ^ 山口且訓と渡辺泰は「毎夕新聞」と解説[3]。
- ^ ただし、『浦島太郎』は後に、別人の作と判明。
- ^ 「なまくら刀」「塙凹内新刀の巻」「試し
斬 ()」という題名でも上映された。 - ^ 「茶目スケッチ 空気銃の巻」という題名でも上映された。
- ^ フィルムからスチルを起こした杉本五郎は、1920年(大正9年)だと証言している[17]。
- ^ 足立元は1926年(大正15年)の作品と解説[18]。
- ^ 山口且訓と渡辺泰は大正期に作られたとしか解説していない[19]。
- ^ a b c d e f g h i 政治PR映画。当時、政治家たちの集会場や演説会場のみで上映された。
- ^ 当時のカネボウ社長・武藤山治が党首を務める政党・実業同志会の綱領PR映画。当時、政治家たちの集会場や演説会場のみで上映。
出典
- ^ 渡辺泰, 松本夏樹 & Frederick S Litten (2020), pp. 105–106, 「漫画家、幸内純一の軌跡」.
- ^ a b “幸内純一”. 日本アニメーション映画クラシックス. 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b 山口且訓 & 渡辺泰 (1977), p. 10.
- ^ 渡辺泰, 松本夏樹 & Frederick S Litten (2020), p. 231, 「第3章 日本アニメーション映画のパイオニアたち」.
- ^ 「歴史 大杉栄らの「近代思想」」『朝日新聞』朝日新聞社、2012年9月24日、夕刊、9面。
- ^ 翠川稔 (1993).
- ^ 津堅信之 (2002), p. 13.
- ^ Frederick S Litten (2013).
- ^ 活動之世界編集部 (1917)。
- ^ 幸内純一 (1920).
- ^ 「戦前のアニメ作品を無償公開! アニメの歴史が分かるサイト「日本アニメーション映画クラシックス」オープン」『ねとらぼ』ITmedia、2017年2月23日。2021年4月25日閲覧。
- ^ 「日本最古級のアニメを発掘、復元 フィルムセンター」『朝日新聞』朝日新聞社、2008年3月27日。オリジナルの2018年1月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ “発掘された映画たち2008”. 東京国立近代美術館フィルムセンター. 東京国立近代美術館. 2015年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月25日閲覧。
- ^ “NFCコレクションでみる日本映画の歴史”. 東京国立近代美術館フィルムセンター. 東京国立近代美術館. 2021年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月25日閲覧。
- ^ “「日本のアニメをつくった20人」紹介”. 東京国際アニメフェア2006. 2021年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月25日閲覧。
- ^ “兵六武者修業”. 日本映画情報システム. 文化庁. 2021年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月25日閲覧。
- ^ なみきたかし (1990), pp. 411–412.
- ^ 足立元 (2012).
- ^ 山口且訓 & 渡辺泰 (1977), p. 195.
[続きの解説]
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