日本アニメの黎明期
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「日本のアニメーションの歴史」の記事における「日本アニメの黎明期」の解説
日本では1917年(大正6年)に初めてアニメ作品が制作された。当時続々と輸入されていた日本国外の短編アニメ映画の人気を受けてのことで、下川凹天、幸内純一、北山清太郎の3人の作品が同じ年にそれぞれ別々に公開された。 1916年、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている。3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである。 諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であった。 その後もディズニーなど輸入されたアニメとの競争にさらされながら、小規模なスタジオで制作されていた。1953年にテレビ放送が開始されるまで、アニメ作品を鑑賞するには、短編のアニメ映画が添え物として上映されるのを映画館で見るのが主流であり、アニメと言えばアニメ映画以外に存在しなかった。 映画がトーキー化すると制作費が高騰し、興行主は同じ値段なら見劣りがする日本産より質が高いアメリカのアニメを選ぶようになり、第二次世界大戦前の日本で人気を呼んだアニメはアメリカのアニメだった。 第二次世界大戦が始まるとこうした状況は一変し、アメリカ映画は輸入禁止となる一方、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1943年)が藝術映画社より製作され、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』が産み出され、海軍省が提供した潤沢な予算でそれまで大量に使えなかったセル画や大量の人材を投入した。上記2作のほか、戦争中には日本最初のフルセルアニメーション『くもとちゅうりっぷ』(1943年)があり、戦時中にも関わらず叙情性が豊かなミュージカル仕立ての作品となっている。 終戦直後も、細々とながら短編アニメ映画は製作され続けていた。この時代の代表作に『すて猫トラちゃん』(1947年)がある。
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