松浦輝夫とは? わかりやすく解説

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まつうら‐てるお〔‐てるを〕【松浦輝夫】

読み方:まつうらてるお

[1934〜2015登山家大阪生まれ昭和45年1970)、植村直己とともに日本人初のエベレスト登頂成功昭和56年1981)には、早稲田大学登山隊を率いてK2に遠征し未踏だった西稜ルートからの登頂成功させた。


松浦輝夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/16 08:35 UTC 版)

松浦 輝夫(まつうら てるお、1934年昭和9年〉 - 2015年平成27年〉11月6日[1]、81歳没[1])は、日本登山家大阪市出身[2]1970年植村直己とともに、日本人として初めて世界最高峰エベレスト登頂に成功した[2][3]

経歴

大阪市出身[2][4]大阪府立西野田工業高校(現・西野田工科高校[4]時代はラグビー選手だった[5]が、「山に登りたい一心で[5]」、1953年早稲田大学教育学部に進学した[5][4]1957年早稲田大学卒業[2]

1965年ヒマラヤローツェ・シャール峰(標高8,383m[6])に挑戦した早稲田大学隊に参加し、松浦は当時の日本人最高到達高度である8,180mを記録した[6]が、食料と酸素の残量が乏しかったため、遭難者をださないことを主眼として、やむなく登頂を断念した[6]

1970年、36歳のときに[3]日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長・松方三郎登攀隊長・大塚博美)に参加し、東南稜ルートのリーダーを務め、5月11日植村直己(当時29歳)とともに、日本人初のエベレスト登頂に成功した[2][3]。この功績に対して秩父宮記念賞を受賞した[2]

1981年、早稲田大学K2登山隊の隊長を務め、8月7日、2隊員[注 1]の西稜ルートからのK2(標高8,611m)初登頂を成功させた[7][2]

その後は、本格的登山からは身を退き[注 2]大阪市家業材木商の経営に当たった[9]1980年代には、所有する賃貸住宅に「ハイムK2」、「ハイム8848」(エベレスト標高にちなむ)[注 3]という名称を付けていた[10]

1991年屋久島に単身で移住し、本格的に陶芸に打ち込む[9][8][注 4]。当地で陶芸作品を観光客に販売するなどして得た資金で、ネパール学校奨学金を送る活動を行った[9][12][11]2001年大阪市に戻った[8]

2015年11月6日白血病肺炎のため死去した[1][4]享年82[1][4]

エピソード

  • 1965年ローツェ・シャール峰の遠征では、雪崩に遭った仲間を救出した後、残り少ない酸素、食料で頂上アタックを開始したが「山で遭難は絶対してはならない」との信念のもと、頂上まであとわずか200m弱のところで撤退することを決断した[13]
  • 1970年エベレストの第1次アタック隊に指名された際、同じくアタック隊に選ばれた植村直己に、「君はゴジュンバ・カン(チョー・オユーII峰)登頂の喜びを知っているが、おれには悔しさしかない。だから絶対にエベレストに登りたいんだ。とにかく這ってでも頂上に行こう」と決意を語った[14]
  • 1970年日本人初のエベレスト登頂に成功した際、植村直己は、エベレストの頂上に達する直前で、先輩である松浦に道を譲り、松浦を先に頂上に立たせようとした[9][12]が、これに対して松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立った [15][16][17]
  • エベレスト登頂を伝える新聞は、「タフで子ぼんのう」、「登山と仕事、それにマイホームをうまく使い分けるマジメ型」と松浦を評した[18]
  • エベレスト登頂後、松浦は、サポートしてくれた隊員たちに感謝したうえで、「一番喜んでくれるのは3人の子供でしょう」と話した[3]

関連書籍

脚注

注釈

  1. ^ 登攀隊長の大谷映芳(早稲田大学山岳部OB)と、ナジール・サビル(パキスタン山岳会、現地参加)である[7]
  2. ^ その理由を、松浦は、「身体がついていけなくなったからである」と記している[8]
  3. ^ 先に、7階建てマンション「ハイムK2」を建て、その後に、8階建てマンション「ハイム8848」を建てた[10]
  4. ^ お世話になった人たちに陶芸作品を贈ろうと思い立ち、独学で陶芸を学び、自分で登り窯を造って作品作りをした[11]
  5. ^ 文庫本には、副題は記載されていない。
  6. ^ 著者は、日本エベレスト登山隊の隊員として参加した、NHKエベレスト取材班団長である。なお、NHKの取材班は内藤を含めて4人参加した。
  7. ^ 登山隊に同行取材したカメラマンである。
  8. ^ 「但馬・理想の都の祭典」日高町実行委員会との共同刊行である。
  9. ^ 松浦が学校建築資金の提供を申し出るくだりが記述されている。話し合いの結果、「松浦育英基金」を設立することとした。

出典

  1. ^ a b c d 日本人初のエベレスト登頂 : 登山家の松浦輝夫氏死去”. 産経WEST. 2015年11月7日17:15配信。2020年4月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 日本初エベレスト登頂 松浦輝夫氏が早稲田摂陵に来る!” (PDF). 早稲田摂陵中学校・高等学校. 2013年11月13日閲覧。
  3. ^ a b c d 毎日新聞東京版(夕刊1970年昭和45年)5月14日 1面『エベレストに初の「日の丸」 : 日本山岳会、世界6番目の快挙 : 東南稜から登頂 松浦、植村両隊員』。
  4. ^ a b c d e 朝日新聞東京版(朝刊2015年11月8日、38面『松浦輝夫さん死去 : エベレスト日本人初登頂』。
  5. ^ a b c 朝日新聞・東京版(朝刊) 1981年5月29日、17面『この人に聞く : 早大K2登山隊長 松浦輝夫氏 : 難ルートだが自信 : 後輩に道開きたい』。
  6. ^ a b c 朝日新聞・東京版(朝刊) 1970年5月31日、21面『ゆっくり話そう : エベレストに登った 松浦輝夫氏 : 天地の境に立って : 広いながめに感激 : 南壁 いまの技術では無理』(エベレスト・ベースキャンプで片山特派員)。
  7. ^ a b 朝日新聞・東京版(朝刊) 1981年8月29日、17面『壮絶だったK2登頂 : ボンベ捨て無酸素 : 異例の登頂前ビバーク : 松浦・早大隊長に聞く』。
  8. ^ a b c 初登頂から50年 : 最高峰エヴェレストへの思い”. 社団法人日本山岳会・会報『山』 2003年5月号。2020年5月24日閲覧。
  9. ^ a b c d 梅崎隆明 (2001年3月4日). “[ひと点描]松浦輝夫さん67 もう一つの頂上 陶芸の日々、仲間に感謝込め”. 読売新聞・東京朝刊: p. 38  - ヨミダス歴史館にて閲覧。
  10. ^ a b 朝日新聞・東京版(夕刊1987年5月7日、3面『「世界一」の譲位はあるか : エベレストとK2の“身長”逆転 : 決着、同条件での衛星測量の判定待ち : 登ったひとはヤキモキ』(武田文男編集委員)。
  11. ^ a b 朝日新聞・東京版(夕刊2003年5月24日、14面『エベレスト登頂に恩返し : 日本人初の松浦さん、地元の学校奨学金』。
  12. ^ a b 「time flies…)1970年5月11日 最高峰征服」『AERA』2007年5月14日、13頁。  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧。
  13. ^ 登山教室開講 - JAC Website - 日本山岳会 2012年8月26日”、「とくしま県民プラザ」(徳島県徳島市)で開催された講演。2012年9月14日付け記事。2020年4月10日閲覧。
  14. ^ 長尾三郎/著『マッキンリーに死す : 植村直己の栄光と修羅』 講談社1986年2月12日。55頁。
  15. ^ 植村直己冒険館』(兵庫県豊岡市)館内で上映されている、松浦輝夫のインタビュー映像。2016年12月閲覧。
  16. ^ 朝日新聞・東京版(朝刊) 1970年5月20日、20面『重かった記念の石 : 松浦・植村両隊員 登頂の日の模様語る』(エベレストベースキャンプ=片山特派員発)、「二人いっしょに登った」と記載されている。
  17. ^ 中島祥和/著『遙かなるマッキンリー : 植村直己の愛と冒険』 講談社1984年6月20日。128頁。
  18. ^ 朝日新聞東京版(夕刊1970年(昭和45年)5月14日 10面『成功招いた異色コンビ : まじめ男の松浦隊員 : “風来坊”の植村隊員』。


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