追放政策の実行と頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:49 UTC 版)
「ホロコースト」の記事における「追放政策の実行と頓挫」の解説
「ヒトラーの予言演説(英語版)」も参照 ユダヤ人をドイツ国外追放するという考え方は古くからあり、ヒトラーも結党間もないころの演説では「ユダヤ人にとっとと(ドイツから)出て行ってもらう」とたびたび語っている。ナチ党の幹部でもあるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書『Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten』の中で、「ドイツのユダヤ人集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」 (p. 153) と述べている。 しかし一方で、ヒトラーおよびナチ党員は、ユダヤ人問題解決策としての大量殺戮をほのめかす発言をたびたび行っている。「シュテュルマー」の編集主幹であったユリウス・シュトライヒャーはこう述べている。「最後のユダヤ人がドイツから去ったとしても、(ユダヤ人問題は)解決されたことにならない。世界中のユダヤ人が殲滅された、その時初めて解決されたと言えるのである。」『我が闘争』の中には「これらヘブライ人の民族破壊者連中を、一度毒ガスの中に放り込んでやったらとしたら、前線での数百万の犠牲も決して無駄ではなかったであろう」という記述があり、ナチ党地方幹部であったヘルマン・ラウシュニングは、ヒトラーが「(ユダヤ人の)人種単位の除去が私の使命である」「望ましくない人種を、体系的に、比較的苦痛もなく、ともかく流血の惨事もなく、死滅させる多くの方法がある」と語ったとしており、1939年1月30日の国会演説は、さらにそれを直接的にしたものであり、ヒトラーがたびたびこの演説を引用したこともあって、時に大量殺戮によるホロコーストを予告したものとされる。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}今日私は再び予言者となろう。即ち、もし国際主義的ユダヤ人金融資本家どもが、ヨーロッパの内外で、再び諸民族を世界戦争に引き込むことに成功したとしても、その結果は地球のボルシェヴィキ化、ユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の殲滅となるであろう。 —1939年1月30日のヒトラー国会演説、(南 1995b, p. 187) 1939年9月のポーランド侵攻に先立つ9月21日、ハイドリヒはユダヤ人問題の「最終目標」として、ドイツ領となるべきポーランド占領地域に住むユダヤ人をできるだけ追放し、ごく少数の都市に集中収容するべきという報告書を作成した。ポーランドが占領されると、12月から移送が開始され、ユダヤ人とポーランド人あわせ87,000人が、占領地域からワルシャワなどの各都市ゲットー(ユダヤ人街)へ送致された。翌1940年11月には、400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれ交通が遮断された。これはワルシャワ市人口の30%に相当するが、ゲットーの敷地はたった2.4%であった。各部屋に平均9.2人が住んでいたという。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までに、移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情からすでにこの期間に多くの犠牲者が出ている。1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の10人に1人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡した。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。
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