追放解除と重武装化
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警察予備隊は、朝鮮半島に出動した在日米軍の任務を引き継ぐものとして創設されており、朝鮮戦争開戦時において在日米軍が行なっていた任務がほとんど治安維持のみであったことから、上述のとおり、当初は軽装備の治安部隊に近いものとして構想されていた。しかし朝鮮戦争の戦況悪化、ことに11月25日の中国人民志願軍参戦を受けて、マッカーサーは、自由主義陣営が極東において共産主義陣営とまさに対峙しつつあるという危機感を強め、警察予備隊を重武装化する方針を示した。 ソウル再陥落の前日となる1951年(昭和26年)1月3日、マッカーサーは、「朝鮮戦争における要求に匹敵する優先度」を持つものとして、警察予備隊に必要とされる兵器リストをアメリカ合衆国陸軍省に提示した。これはM26パーシング307両を含む760両に及ぶ装軌車両など、ほぼ米軍の4個歩兵師団に相当するものであった。2月9日、アメリカ統合参謀本部はこの要請を基本的に承認したものの、国務省の反対やマッカーサーの更迭などによって、重装備化は遅延を余儀なくされた。しかし警察予備隊の第5期訓練より、これら重装備については在日米軍の保有機材を使って訓練が開始されており、保安隊に改編される直前には、既に軽戦車や榴弾砲など、一部重装備の供与が開始されていた。 警察予備隊の創設、および再武装化はポツダム宣言や日本国憲法第9条に抵触するものであるとして、ただちに極東委員会でソビエト連邦の反発を招いた。また、日本国内でも左派・共産主義者が連携し、国会でも重要な議題となり、最高裁判所に違憲訴訟が起こされた。吉田は自前での装備品調達は諦め、当面は国連軍から貸与(レンタル)されるという形でこの批判をかわした(装備品が自弁主義となったのは1954年の日米相互防衛援助協定以降)。 また、指揮系統をより強固なものとするため、旧軍軍人の追放解除も検討されるようになった。まず6月1日、旧軍の影響が少ないものと期待された陸軍士官学校58期生より、245名が第1期幹部候補生として入校したが、58期生は少尉任官が終戦直前であったために実務経験が乏しく、期待されたほどの効果はなかった。このことから、逐次に佐官級まで募集が拡大され、10月1日には405名の元佐官が、12月5日には407名の元尉官が採用された。 マッカーサー更迭後にGHQ総司令官に任ぜられたマシュー・リッジウェイは、朝鮮戦争の国境会戦において、政治任用された韓国軍の一部高級将校が重大なリーダーシップの欠如を示して壊乱の端緒を作った一方、旧日本軍・満州国軍での軍役経験のある韓国軍指揮官の少なからぬ部分が健闘を示したことを考慮し、大佐級の旧軍軍人の追放解除を検討するようになった。しかし、日本政府が服部卓四郎ほかについての不安を表明したこともあり、大佐級の高級幹部の追放解除は、保安隊への拡張改編を目前に控えた1952年(昭和27年)7月まで遅れることとなった。旧陸軍10名、旧海軍1名が7月に採用決定され、保安隊発足後の8月20日に入隊している。 なお、服部が警察予備隊参謀長就任に失敗して以後、服部グループは不穏な動向を示しており、吉田茂首相の暗殺まで計画していたとされるが、CIAの情報評価は「F6」であり、「信頼性を判断できない情報源がもたらした信憑性を判断できない情報」であると判断されている。また、警察予備隊への旧軍大佐級の入隊に際して、服部は関係が疎遠になっていた辰巳栄一元中将と協力して人選を行っている。辰巳は服部が従来の経緯を忘れて警察予備隊に協力し、旧軍の大佐級の入隊を実現させたこと、その後も警察予備隊の育成には常に誠意を見せたことを例に挙げ、服部を「立派な男だと思う」と回想している。
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