追放社人の苦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
厳冬期の雪道を通り、追放先とされた飛騨の白川郷に向かわせられた石徹白の社人たちの中には、凍死をした者や険しい峠道で谷底に落ちてしまった者もあった、しかも石徹白同様、山が深く雪も多い白川郷にこれほどたくさんの追放者を養える余地があるはずもなく、多くの追放者社人らは更に飛騨の他の地域、美濃、越前、遠くは近江へと流浪した。多くの人々は騒動が解決する宝暦8年(1758年)末までの3年間、安住の地を得ることなく苦闘を続け、体力の劣る老人や子どもを中心として餓死者が相次いだ。宝暦8年(1758年)の箱訴状によれば餓死者は70余名に達し、中でも子どもの餓死者が約半数を占めたという。 石徹白を追放された社人らは多くの場所で厄介者扱いをされたが、援助の手が全く差し伸べられなかったわけではない。中でも先に杉本左近を援助した各務郡芥見村の豪農、篠田源兵衛は、追放社人を援助するために大金を貸し与えた。
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