正真
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正真(まさざね)は刀工の名。および、その流派の名、その刀剣の名。
- ^ a b c d e f g h i 「[正真〈○六人△二人〉] ○金房隼人佐――或ハ二字銘に切和州南都住天文比正実同人と云 ○勢州桑名住千子――或ハ二字銘に切平安城長吉此地へ来りて両作あり文亀比 ○藤原――と切三州田原住本国和州南都金房一派にして三河文殊と唱ふ本多家十方切の作人〈或ハ蜻蛉切トモ〉天文比 ○相州住――と切大永比 ○備前直宗流二字銘に切嘉元比 ○備後国三原住貝――と切明応文亀比 △和州南都住藤原――と切金房新次郎と号慶長比 △武州住源――と切時代不明」(山田 1900, 巻三、五十二丁オ(国文学研究資料館のシステムでは159コマ/全400コマ))
- ^ a b c d e f 藤代, p. 284-286.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 福永 1993, 5巻, pp. 77–78.
- ^ a b c d e f g h i j k 藤田 1938, pp. 31–37.
- ^ a b 福永 1993, 1巻, pp. 107-108.
- ^ 三重県教育委員会. “文化財検索一覧”. 2018年8月25日閲覧。
- ^ 尾関 1855, 十一丁、80コマ目.
- ^ a b c d 福永 1993, 2巻, p. 15.
- ^ Nagayama, Kōkan (1997). The Connoisseur's Book of Japanese Swords. Kodansha International. p. 37. ISBN 9784770020710
- ^ a b 福永 1993, 4巻, p. 121.
- ^ 仰木 1792, 国文学研究資料館のシステムでは93コマ/全297コマ.
- ^ 福永 1993, 1巻, p. 255.
- ^ a b c d 松浦 1978, pp. 201–205.
- ^ 正真 後柏原美宇文亀永正大和国文殊末当国田原住按金房一門なるべし(鎌田 1851, 巻之二、二丁オ)
- ^ 正真文亀永正大永大和の文殊一類当国田原に住す太刀の象大小共手揆物の如し地鉄締りて錵細に匂ひ深し上手也此作には蜻蛉切といふ名物の鑓有り按金房の同名同人も知る可からず(鎌田 1851, 巻之十一、四丁オ)
- ^ 小笠原 1994.
- ^ 渡辺 1921, 32巻, p. 1376.
- ^ 山本 2018.
- ^ 栗原 1909, p. 789.
正真(しょうしん)
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正真
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詳細は「正真#伊勢千子正真」を参照 伊勢千子派のもう一人の代表的人物が正真(まさざね)である。 酒井忠次の愛刀で七男の松平甚三郎(庄内藩主席家老)の家系に伝わる猪切(いのししぎり)は、千子正真の作である(銘は「正真」の二字)。若かりし頃の家康が伴を連れて狩りに出た時、忠次がこの千子正真で猪を斬ったので、茎に「猪切」の金象嵌を入れたのだという。その他、「刀 銘正真」一振りが三重県有形文化財となっている。 『全休庵楠系図』によれば、千子派の初代正真は楠木正成の子孫であり、父は二代正重で、子に二代正真と雲林院政盛がいる。 正真という刀工は、伊勢千子派の正真と世代的にも地理的にも近いところで、他に大和金房派の正真(金房隼人丞正真)と三河文殊派の正真(「文殊」は手掻派の通称)の二人がおり、この三者のうちのそれぞれの組み合わせについて同一人物説があって、かなり混迷している。本多忠勝の愛槍蜻蛉切(明治時代以降天下三名槍に数えられる)は、銘に「藤原正真作」とあるが、どの正真なのかはっきりしない。この「藤原正真」についても、千子正真という説、三河文殊正真という説、そもそも伊勢千子派と三河文殊派で同一人物であるという説、別人ではあるが両者とも「藤原正真」の銘を切ったことがあるという説がある。福永酔剣は、古剣書にある「永正十二年三月日」「大永六年八月十二日」の銘を切った藤原正真は千子正真だが、蜻蛉切の藤原正真は田原藩の田中正真ではないか、としている。 江戸時代、三河田原藩の素封家で酒造業のちに薬種業を営んでいた田中氏は三河文殊正真の後裔を称していた。田中氏の家系図によると、大和手掻派の包吉が田原に移住してきたとき、男児が無かったので弟子の田中久兵衛正真を長女の婿としたが、この田中正真こそが三河文殊正真であるという。生年は本多忠勝と同じ天文17年(1548年)、没年は慶長16年8月22日(グレゴリオ暦1611年9月28日)である。田中正真が活動していた頃の田原城代は、忠勝と同じ三河本多氏の本多広孝であり、福永酔剣は、忠勝が広孝を通じて田中正真に蜻蛉切を作らせた可能性は十分にあるとしている。田中正真の墓は、2018年現在も愛知県田原市田原町二ツ坂に現存する。田中正真の子では五男の久兵衛のみが刀工となり戸田忠昌の天草転封(1664年)に従って天草に移住した。小笠原信夫は、三河文殊正真もまた地域、作風、年代からして村正と技術的交流があったとしている。
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