正直選挙民主党
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「1899年ケンタッキー州知事選挙」の記事における「正直選挙民主党」の解説
民主党議員の中には音楽ホールでの大会結果に不満を抱いたままの者がいた。ウィリアム・ストーンは暫し沈黙していた後で、ゴーベルと交わしていたはずの約束と、如何にゴーベルがそれを破ったかを公にし始めた。ゴーベルの同僚はこの告発に対してゴーベルを守ろうとしたが、ストーンの話は元下院議員のW・C・オーウェンズによって裏付けられることになった。オーウェンズは民主党員に共和党候補者への投票を呼びかけ、多くの者がそうすることでゴーベルによる如何なる政治的論争によっても彼を知事にしないように仕向けた。 ルイビルの民主党集団、彼等はアメリカ合衆国上院議員ジョー・ブラックバーンの支持者だったが、最初に新たな指名大会を呼びかけた。それから間もなくマウントスターリングで開催された大きな集会で、決定的な形になった。8月2日にレキシントンで集まり、新たな大会の詳細を決めることになった。その後にあった大きな集会で、2度目の大会がもたれた場合には、元州知事ジョン・Y・ブラウンが候補指名を受け入れると発表された。ブラウンはゴーベルの支持に回ると考えられたので、この発表は民主党の中に小さからぬ動揺を生んだ。レキシントンでの8月2日の集会には60郡の代表が出席した。1896年民主党全国大会の綱領を裏書きし、1900年大統領選挙ではウィリアム・ジェニングス・ブライアン候補を支持する決議が採択された。続いて元知事のブラウンが聴衆のまえで演説した。最後は代表団が8月16日に指名大会を開催することに合意した。 ケンタッキー州120郡の内、108郡の代表が大会に集まった。その中には「レキシントン・ヘラルド」、「ルイビル・イブニング・ポスト」、「ルイビル・ディスパッチ」各紙の編集長、下院議員のオーウェンズ、元ケンタッキー州下院議長のハーベイ・マイアーズ・ジュニア、政治ボスのウィリアム・マッコイ、ジョン・ウォレン、セオドア・ハラムがいた。この大会では州役人候補者全てのリストを作成し、そのトップに元州知事ブラウンの名があった。さらには音楽ホールでの大会、ゴーベル選挙法、ウィリアム・マッキンリー大統領の政権を非難する綱領を採択した。
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