手掻包吉の弟子説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 14:59 UTC 版)
那賀山乙巳文『刀匠田原文珠と其子孫』(1938年)によれば、江戸時代、三河田原藩の素封家で酒造業のちに薬種業を営んでいた田中氏は三河文殊正真の後裔を称していた。田中氏の家系図によると、大和手掻派の包吉が田原に移住してきたとき、男児が無かったので弟子の田中久兵衛正真を長女の婿としたが、この田中正真こそが三河文殊正真であるという。生年は本多忠勝と同じ天文17年(1548年)、没年は慶長16年8月22日(グレゴリオ暦1611年9月28日)である。田中正真が活動していた頃の田原城代は、忠勝と同じ三河本多氏の本多広孝であり、福永酔剣は、忠勝が広孝を通じて田中正真に蜻蛉切を作らせた可能性は十分にあるとしている。田中正真の子では五男の久兵衛のみが刀工となり戸田忠昌の天草転封(1664年)に従って天草に移住した。
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