徳川義宜
徳川義宜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/19 07:25 UTC 版)
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| 時代 | 江戸時代末期 - 明治時代 |
| 生誕 | 安政5年5月24日(1858年7月4日) |
| 死没 | 明治8年(1875年)11月24日 |
| 改名 | 元千代、徳成、義宜 |
| 別名 | 義宣、号:松堂、靖公 |
| 戒名 | 隆徳院殿 |
| 官位 | 右兵衛督、左近衛権中将 贈正三位 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
| 藩 | 尾張藩藩主、名古屋藩知事 |
| 氏族 | 尾張徳川家 |
| 父母 | 父:徳川慶勝、母:武藤氏娘・お玉の方 養父:徳川茂徳 |
| 兄弟 | 義宜、道姫、登代姫、良姫、富姫、義恕 |
| 妻 | 婚約者:有栖川宮幟仁親王四女・利子女王 |
徳川 義宜[1](とくがわ よしのり)[2][3][4]〔『現代華族譜要』では德川「義宣」(よしのぶ)[5]〕は、江戸時代末期の大名。尾張藩の第16代(最後)の藩主、尾張藩知事。右兵衛督、左近衛権中将、贈正三位[2][5]。
生涯
安政5年(1858年)5月、徳川慶勝の三男として誕生した[2]。幼名は元千代[2]。
文久3年(1863年)9月、徳川茂徳の跡を継いだ[2]。茂徳より1字を与えられて徳川徳成(ながなり)[6]〔旧字体: 德成[5]〕を名乗る(のちに養親子関係は解消された)。元治元年(1864年)に茂徳も隠居したため6歳で家督を継ぎ、諱を義宜(表記は義宣とも)に改める。
しかし幼少のため、執政は父・慶勝によってほとんど成されたという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が東海道を江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、慶勝の影に隠れ、主体性は薄かった。
明治8年(1875年)11月[5][2]、18歳で夭折した。法号は隆徳院殿。号は松堂、靖公。義宜の死後は父・慶勝が当主として復帰している。
死後
三輪神社 (名古屋市)に祭神として祀られている[7]。
家族
きょうだい
○出典:『昭和新修華族家系大成』[2]
脚注
出典
参考文献
外部リンク
固有名詞の分類
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