路線転換から条約勅許へ
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「攘夷実行の勅命」の記事における「路線転換から条約勅許へ」の解説
その後も攘夷実行や破約を求める勅書が諸大名に発せられた。6月18日の「無二念打払令」や、西国諸藩に攘夷を督促する「監察使」の派遣(実際に派遣があったのは長州藩・和歌山藩・明石藩)などがその具体的内容である。7月23日には武家伝奏を通じて京都守護職の松平容保に、攘夷を実行しない藩からは官位を剥奪するという勅命が伝えられた。関門海峡砲撃を巡って長州藩と対立した小倉藩に対しては官位剥奪と所領の没収という朝廷の処分が8月にいったん決定された(実行されず)。 しかし、孝明天皇は自身の意思と無関係に急進的な勅書が出ることを憂慮し、8月18日に急進的攘夷論の公家を朝廷の中枢から追放する(八月十八日の政変)。急進的攘夷派が計画した天皇の大和行幸(攘夷祈願後に天皇自らによる攘夷の軍議を開く予定だった)も中止された。孝明天皇は8月26日に、8月18日以前の親書には信憑性に問題があるものが含まれる(26日以降は真の勅書である)とする勅書を発表し、事実上攘夷勅命を無効化した。文久4年(1864年)1月に家茂が再度上京した際には、「無謀の攘夷は実に朕が好む所に非ず」という勅書(薩摩藩の意向が反映したとされる)を出し、天皇と将軍が「父子」のように親密であるべきと主張した。また、「政令二途」に関しては同年4月20日に幕府に下した勅書において「幕府へ一切御委任遊ばされ候事ゆえ、以来、政令一途に出で、人心疑惑を生ぜず候様、遊ばされたく思し召し候」という見解が示され、朝廷から藩に命じることはしないとされた。 もっとも、政変の時点では孝明天皇は戦争は望まなかったものの、「攘夷」自体は放棄しておらず、一橋慶喜は条約の部分修正による横浜の鎖港を幕府内に提案して承認される。幕府は文久3年12月29日に交渉に当たる使節団(横浜鎖港談判使節団)を派遣したが、最初に訪問したフランスで交渉拒絶に逢い、それ以上の交渉を断念して翌年7月に日本に戻った。この間、幕府は横浜を鎖港状態に置いた。 長州藩はその後も関門海峡の封鎖を継続して、政局での主導権回復をうかがったが、元治元年(1864年)7月に実力行使に及んだ禁門の変に敗れ、これをきっかけに翌8月にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国連合艦隊から下関砲台への攻撃を受けて降伏し、攘夷戦争に敗北した(下関戦争)。その長州藩も、八月十八日の政変前の文久3年5月には井上聞多・伊藤俊輔らを密航という形でイギリスに留学させていた。これも前記の周布政之助の「破約攘夷」論に沿ったものだった。 外国勢力の下関攻撃の背景には、横浜鎖港を長州藩への報復によって断念させるという意図があった。幕府は下関戦争直後に横浜鎖港撤回を決め、各国公使に伝えた。諸外国側は、攘夷方針の根源が天皇・朝廷にあるという認識に立っており、翌慶応元年(1865年)9月、家茂が長州藩征討の目的で大坂に滞在している折に、軍艦9隻を兵庫沖に派遣した上で、条約勅許(外国側は批准とみなしていた)への圧力をかけ、幕府に対してはその回答期限を提示した(兵庫開港要求事件)。家茂は条約勅許と引き換えに将軍職を辞す(後任に一橋慶喜を指名)という文書を関白に提出したが、これを見た慶喜は関白に評議の開催を求め、公家・武家による天皇臨席での2日間(2日目には在京有力藩士にも意見を求めた)の討議の結果、10月5日に天皇は条約を勅許した。これによって、条約勅許問題は終結を迎えた。
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