路線選定と工期決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 03:55 UTC 版)
「奉天市地下鉄道」の記事における「路線選定と工期決定」の解説
こうして生まれた地下鉄構想を計画とするため、本格的な路線網の選定が行われた。当時日本においても地下鉄は東京市と大阪市にそれぞれ1路線あるばかりで「路線網」という状態でなかったため、欧米等の例を参考にし、奉天市中心部の実際を見ながらの一からの選定となった。 当時奉天には2つの市街地が存在した。一つが奉天駅を中心とする満鉄附属地であった新市街で、奉天駅構内の西側を西端、千代田公園を東端、大広場から鉄道総局周辺を北端とする周辺が当たる。もう一つがその東側に元々存在した瀋陽故宮を含む旧奉天城とその周辺の旧市街で、ほぼ縦に長い楕円状の区域である。前者には主に大学や学校、百貨店などの南満州鉄道のインフラストラクチャー事業に伴う施設が、後者には市役所や裁判所などの役所や市場など既存の街を形作る施設が存在した。 このようなことから特に東西に結ぶ路線が必須となり、西郊外の牛心街を起点に鉄西広場を通り、奉天駅から忠霊塔前を経て大西辺門から奉天城の中心を貫き、大東辺門を通って東郊外の東塔から東陵へ至る路線を「一号線」とした。 ここに井桁状になるように路線をからめ、順次放射状に路線を広げることになった。西郊外・永信区から東へ走り、南の住宅地・砂山で北に方向を変え、南十條を通り忠霊塔前で一号線と交叉、大広場の先で東に進路を変えて小西辺門から北東郊外の北興街・瀋海区広場へ向かう鍵の手状の路線を「二号線」、北郊外の賽馬場から北陵・万年街・昭安街を経て北奉天駅を通り、小西辺門で二号線と交叉、さらに南進して大西辺門で一号線と交叉、南郊外の五里河子までの南北路線を「三号線」とした。また二号線の北興街から分岐し南下して大東辺門で一号線と交叉、孤家子に至る路線を「四号線」とした。 これ以降は郊外路線となり、一号線の東塔から分岐して東南方向へ向かう路線を「五号線」、一号線の鉄西広場から分岐して北に走る路線を「六号線」とした。ただしこれらは衛星都市の建設を待つ関係上、分岐点とおおまかな経路のみが記された予定線で、具体的にどこへ向かうかは決められていなかった。 なお環状線の可能性も示唆されたが、施設が複雑になること、周辺部まで含めようとすると建設費の割に乗客密度の疎密が激しく不経済であることから退けられている。 工期は三期に分けられ、第一期には一号線の牛心街-奉天駅-東塔間、二号線の南十條-小西辺門間、三号線の小西辺門-昭安街間で基礎を作り、第二期には一・二・三号線の残存区間の完成と四号線の全通ののち、さらに五号線の東塔-三家子間を建設して中央の路線網を完備。第三期から郊外線の五号線延伸と六号線に手を着けるとしていた。 地下鉄ゆえに工事期間は長く取られ、第一期は1942年(康徳9年)に着工し、1948年(康徳15年)に完成、第二期は1953年(康徳20年)完成、第三期は1958年(康徳25年)完成の予定とされた。 これらの計画は単に机上の計画のみに留まらず、実地検分や測量を行った上で立てられており、すぐにでも建設にかかれるほど微に入り細にわたっているほか、建設規約も作られており、建設具体化に極めて意欲的であった。
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