路線選定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:05 UTC 版)
建設省案採用後、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線を残し、以後は日本道路公団が路線の詰めを担当した。建設省が大比較線を残したのは、いずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、元々建設省が計画したのは浜北を通過する内陸案で、これに対して産業計画会議が海岸案を提案し、この二案を折衷したのが中間案であった。 内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が少ない。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸案を提案した。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。ただし、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばない。だが、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させた。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で、一年以上も遅れていた整備計画にさっそく反映のうえ施行命令が出された 大比較線以外では、比較的小さい比較線が幾本も検討された。なかでも、複数の比較線の中から路線を選定する場合、建設費用を低減できる初期投資が低いルートを選ぶか、あるいは、初期投資が高くとも走行時間や走行距離が短いために走行費が低い長期的な便益を選択するのか、という二択を突きつけられるケースがあり、この場合は選択が困難となる。例えば、豊川付近では初期投資の低いルート、蒲原では初期投資の高いルートが選ばれた。豊川の場合、山の通過においてトンネルを取りやめて建設費の安い迂回ルートが選ばれているが、トンネルの方が迂回ルートより300 m短いものの、建設費は418億円余分にかかる。しかし、距離が短いことによる走行費と時間の節減により477億円の超過便益があるが、初期投資の差が少ないことから豊川は初期投資が低いルートが選択された。一方の蒲原の場合、山の通過において迂回路では多くの人家にかかって地元の反対が強く、曲線半径500 mという急曲線が生じることで、トンネルを通した。この場合、迂回に比べて250 mの短縮ではあるが、初期投資は218億円増である。それでも1,554億円の超過便益があり、その圧倒的な差によって蒲原は初期投資が多いルートが選択された。このように東名のルート選択は、経済比較を綿密に行ったうえで決定した。 初期投資と超過便益を秤にかけて選定された典型的なルートが、静岡県と愛知県の県境を通過する宇利トンネル区間である。ここは当初案(建設省案)と比べてルートが大きく北寄りに移動した。建設省案では、三ヶ日町を通過する予定であった。しかし、市街地分断は避けたいとの思惑から、公団は当区間を南北それぞれに移した。南側の猪鼻湖と、北側の三ヶ日トンネルを通す二案である。ここからさらに分岐して、都合五案が考案された。ここから取捨選択して二案に絞り、これ以外の案は、通過する地質が悪く、工事が難航するために破棄した。二案が選択されたのは、建設費、超過便益で勝っていることによるが、それぞれを比較すると以下のようになる。 宇利トンネル線 : 宇利トンネルの挿入によって谷を渡る橋が少なく済み、土工量も少なくなったことで、工費は最小で、中山A線比で13.6億円有利。勾配も最も緩い。ただし走行距離は長いために中山A線と比べて超過便益が30.8億円不利。 中山A線 : 中山Aトンネルを一本挟むが、工費は二番目に安い。3パーセント(100メートル進んで3メートルの高低差)以上の勾配が6 kmに及ぶ。走行距離は最も短く、ゆえに超過便益で最も多い。ただし、猪鼻湖の通過に未知の要素がある。 つまり、初期投資が少なく、施工が容易なルートを選ぶか、初期投資は多いが長期的に有利なルートを選ぶかの二者択一となったが、結果は初期投資の少ない宇利トンネル線が採用された。 画像左 : 松田町内の東名。奥は酒匂川で、高速道路の建設に適した酒匂川と手前の山地間の平野は、人家、道路などで全て埋め尽くされていた。このため東名は画面手前側の山沿いに計画された。画像右 : 鮎沢付近の東名最大規模の長大切土。切り取り高さ75 m、掘削土量約5万立方メートルに及んだ。こうした長大切土は自然のバランスを崩すことから負の条件を持つ。工事中の災害の危険が伴い、開通後も崖崩れの恐れがある。そうした危険を回避する意味でも山北の場合は都夫良野トンネルが掘削された。 こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間で、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった。松田 - 山北間は、箱根山と丹沢山塊に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とをぬって進み、鮎沢川と酒匂川による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ない。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである。 この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば長大のり面と橋が多い南線と、トンネルの長い北線に収れんされる。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。都夫良野トンネルはこうして入ることになったが、これが北線であり、こちらが採択された。 比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線に奪われたことで、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要によった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである。 なお、東名の起点は当初、渋谷区代々木八幡の環状6号(山手通り)接続であったが、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、世田谷区の環状8号まで後退した。最終的な起点位置は、首都高速3号渋谷線の連結を考慮して決定した。
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