路線建設の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 15:01 UTC 版)
大阪港においては、1898年(明治31年)4月5日に西成鉄道が大阪駅 - 安治川口駅間で営業を開始し、これにより安治川北岸には鉄道が開通して船舶と鉄道の連絡が行われていた。これに対して安治川と尻無川の間の海岸沿いには1897年(明治30年)頃から築港事業が進められていたが、鉄道の便が長くなかった。1901年(明治34年)9月には大阪市会において「臨港鉄道に関する建議」が可決され、政府に対して大阪梅田と大阪港を結ぶ臨港鉄道の建設を求めた。 築港に至る鉄道としては、西成線福島駅から分岐して尻無川に沿って南西に進み築港に至る「北線」と、関西本線今宮駅から分岐して木津川と尻無川を下流部で横断して築港に至る「南線」の2案が検討された。北線は延長6マイル8チェーンで建設費970万円余り、工期7年と試算されたのに対して、南線は延長4マイル5チェーンで工費550万円余り、工期5年と試算された。しかし北線が東海道本線に直通できるのに対して、南線は城東線経由で遠回りとなる上に、船舶の通航の多い木津川・尻無川を下流部で横断して橋が水運の障害となる問題があった。一方北線も市街地の中心部に貨物線が通ることになるという問題を抱えていた。大阪市会では1909年(明治42年)に北線案を決議して政府に陳情した。政府も臨港鉄道の必要性を認め、衆議院において大阪築港臨港鉄道の早期着手を求める決議が採択され、路線選定作業が始められた。 南北両線の選択はその後も紛糾した。経路が決定できないながらも、政府は1909年から12年間の予定で建設を計画した。しかし、港湾部における停車場用地として陸軍省の土地10万坪を提供してもらう交渉が難航したことや、政府の深刻な財政難から、建設は大幅に先送りされた。1915年(大正4年)5月には、大阪市も財政難のために築港事業を中止するところまで追い詰められた。この築港中止は、さらに臨港鉄道の建設遅延を招きかねないという懸念を引き起こし、この年7月26日に市会では、臨港鉄道が着工すれば船渠などの工事を再開するとの条件をつけた上で、政府に対して再度の臨港鉄道建設の建議を決議した。これによりようやく政府も動き始め、1917年(大正6年)に南北両線の折衷案ともいうべき、実際に建設されることになる経路を決定した。これは、南線の持つ水運途絶の問題をできる限り軽減するために、渡河地点を上流部に寄せたものとなっている。この年11月14日に建設が決定された。
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